忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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名字に見る歴史背景 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(40)

 豊後及び海部郡佐伯地方の歴史背景をあらためて名字から紐解いてみた。全てこの絵(壇ノ浦の戦い)に始まる。武家政権の成立である。中央武力政権と氏族の関係性(勝者と敗者)、またそれぞれの国(令制国66カ国)の固有性(地政、地勢)の違いにより概ね把握が可能である。

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 鎌倉政権との関係性において、多くが平氏の知行地であった西国で豊後は唯一関東御分国(頼朝政権の直轄9カ国)の一つとなった。幕府は頼朝腹心の大友氏を豊後守護に据え直接統治を始める。豊後の豪族への抑止の必要性からである。豊後の豪族大神一族は義経を支援し頼朝討伐に加担した。その武力は無視し難い。因みに堅城岡城も大神一族の棟梁・緒方惟栄義経を迎える為に築城したものと言われる。義経がここを拠点とした場合の”歴史のif”がここにもある。

 下図は源平の勢力図である。西国には藤原氏の荘園が多かったが、藤原純友の乱を契機に平氏がこれを討ち藤原氏の所領を奪取していった経緯がある。一方、東国は元は平氏が進出していたが、平将門の乱を契機に源氏が中央から参陣しこれを討つことに加担、所領を奪取していった経緯がある。そういう背景の中、源平合戦が始まる。

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 平氏敗北後、豊後においては鎌倉政権の支援を得て有力な地元豪族は悉く転入氏族・大友氏に潰されていく。当然、ここに関東からの新たな氏族の進入余地も生じてくる。その名字が幾つかある。三浦、工藤、梶原、染矢等である。西日本でも大分県(豊後)に特に多い。

 また、源氏に討たれた平氏、源氏の絶えた後の鎌倉政権の内紛(北条氏の台頭)、戦国時代の覇権争い、これらに敗れた氏族も避難地として豊後に落ちてくる(地政、地勢)。その名字も幾つかある。多くが海の氏族である事も特徴的である。河野、三浦、御手洗、成松、等である。佐伯地方に多い。

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 地政学的、あるいは地勢的に豊後及び海部郡佐伯地方は独特の形状を有する。古くより海の交通路(瀬戸内海、豊後水道)の要衝に位置している。特に海部郡は懸崖の地であり未開拓地も多かった。上記の氏族が水路を通じて落ちて行くに適地でもあった訳である。

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 ここで具体的に名字とその人数から特徴を把握してみる。まずは大分県(豊後)全体である。各名字の全国における人数シェアが5%以上であればこの地に特徴的と言えよう(都道府県数47: 2%が平均と仮定)。個別の名字を見る。三浦、工藤、染矢は鎌倉政権において北条氏に討たれた、あるいは頼朝に疎まれた氏族である。大友氏を頼って来たに違いない。もっとも三浦氏は以前より大分郡高田荘に地頭職を得ている。三浦、工藤姓は今でもここに多い(旧高田荘三佐地区)。明らかに相模からの転入氏族である。三浦氏は三浦半島を扼する海賊でもあった。海部郡の海の勢力に寄っていった可能性も排除出来ない。佐伯地方にも多い。染矢氏も頼朝に疎まれて高田荘に上陸しているが、その後、佐伯地方に勢力を張った。伊豆の伊東氏は日向に下向、同じ下向組の島津に討たれて大友氏を頼った。以上は関東御分国、東国武士団の西遷に繋がる豊後に見る特徴と言えよう。蛇足ながら、佐伯に漂着したリーフデ号に乗っていたウィリアム・アダムスは相模三浦半島に領地を得、三浦按針と称した。

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 下表に大分県の名字を多い順に並べてみた。佐伯地方に多い名字も列挙した。それが全国においてどういう順位、シェアを占めるかで特徴が分る。前述の氏族名の位置付けが明瞭である。シェアが5%以下であれば、まずは外部転入者ではないかと推測出来る(佐藤、工藤、三浦、柴田、宮脇等)。5%以上であれば概ね大分県に独自の名字と言ってもよい。佐伯地方については大分県で仮に30%以上のシェアを占めれば佐伯地方固有の名字と言えるだろう(人数上位では柴田、柳井、染矢、御手洗、人数下位では成迫、狩生、今山、大鶴等)。

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 当然だが、全国に最も多い名字であれば大分県に特有の名字と言える。後藤、河野、安倍、首藤等がそれである。伊予からの河野氏を除けば大分県に特有である。海部郡佐伯地方の名字も同様である。柳井、染矢、御手洗等がそれである。ただ、これらも元は外部からの移住者である。また、四国と大分には平家落人伝承地が多いが清家は平氏の変名である。これも外部からの転入者ということになる。人数的には佐伯地方に多くの平氏が落ちて来たと言えるかもしれない(大入島に集中している)。更に希少な名字(少人数で高いシェア)であれば、これはもう佐伯地方に独自のものと明言出来る。これを下表に示す(500位までしか把握できない、それ以下は無視している)。

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 海岸地方は人口も多く海を通じた長い交流の歴史を持つ(中世、蒲江は府内に並ぶ人口を有した)。この為、外部からの交流を通じた移住者も多く苗字も多様である。一方、内陸地方には、隣国日向や大野郡から流入して来た名字(川野、柴田、富高、狩生)が見受けられるが、名字の多様性は海岸地方に比べれば低い。佐伯地方でも食える土地であったか否かがその背景にあると思われる。多様な氏族では共生し難い。内陸は氏族が孤立して住むのが理に適っていたということであろう。

 いずれにしても、大分県(豊後)でも佐伯地方の名字は多様であると言えそうである。この地が移住者や退避者が流れ込みやすい地であったということが背景にあると言ってもよいのではないか。人を惹きつける独特な地勢なのである。その代わり中央権力には背を向け独特な性情を養ってきた地ともいえる。人々は熱いが諦めも早い。

 

了