忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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地勢と生活文化 郷土史研究用資料(1)

 地質学に付加体という言葉がある。 

 

 その前に我が豊後の地勢を強引に分類してみる。北から国東半島、中部大野平原、南部山岳地帯と大別出来る。国東半島から肥後、そして薩摩まで豊後を斜めに白山及び霧島火山帯が貫いている。また、日本を東西に貫通する中央構造線が伊予の佐田岬あたりから豊予海峡を挟んで豊後の佐賀関あたりまで至っているが、その佐賀関の僅か南の、かつて大友宗麟が晩年に居城を構えた臼杵から肥後の八代までを結ぶ線(臼杵八代線)で南北の地勢が見事に変化する<地質図参照>。

 この線を境に南北で地質や土壌も相違する。その線は明らかに構造線に沿っているが、北側には久住連山や阿蘇に至るまでなだらかな丘陵地帯が広がる。そこに南の祖母・傾山と北の久住連山からの流れを集めて別府湾まで豊後一の大河大野川が滔々と流れていく。豊後一の豊穣の地であり、かつて多くの荘園が開かれ、大野川がその物流を担い、瀬戸内海、摂津へと水運が興隆した。土豪が盤踞出来た故である。 

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 国東半島も元は噴火により出来たものである。中央の双子山から放射状にいくつもの河川が流れ落ち、なだらかではあるが、見事なまでの円錐状の半島を形成している。ここに六郷満山を中心に仏教文化が起こった。やがてこの地は宇佐神宮領化していく。国東半島、大野平原は、いずれも火山活動による土壌で覆われている。特に国東半島は、古来、日本でも有数の産鉄地帯であった。溶岩(磁鉄鉱を含む)が放射状に堆積し、風化や浸食によりやがてそれぞれの流域に砂鉄として凝集することになった為である。 

 さて南部山岳地帯、我が佐伯地方を見る。幾重の山々が襞となって東西に連なり上記の地域とは様相が一変する<起伏図参照>。長い間人や物の往来を阻んできた。平家を始めとする戦乱の敗北者が逃げ込むにはまたとない地でもあった。豊後水道の波に荒い櫛の歯のように侵食されて形作られた海岸線に、その山襞の痕跡を見る。沈み込む海洋プレートの陸側プレートとの高圧の摩擦力により、その表層の堆積物が引き剥がされて陸側に圧着し突き上げられて出来たものである。冒頭に述べた。地質学でこれを付加体という。豊後水道の海岸線は見事にその襞を露出している。山も海も如何に人が住むには峻厳過ぎる地勢であるか容易に想像出来るであろう。この地勢が故に長い時間をかけてこの地には独特の風土が醸成された。豊後の他の地域とは決定的に風土が違うのである。 

 佐伯地方の対岸、伊予の南部地方もまた同じ地質となる。我が佐伯地方の人々はわざわざ峻険な山々を越えて豊後を南北に交流するよりも、海を渡って伊予と交流する方が、いとも容易かったと言えるのである。言葉も生活文化も、多分、似通っているはずである。残念ながら、筆者は未だ南予を訪れた事がないので確かめた訳ではない。 

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 民族の由来の故でもまたこの地の人々は独自の生活文化を培ってきた。古来、日本列島において九州沿岸は大陸や南洋からの政治難民や勇敢な航海者が最初に漂着する新天地であった。大陸からはその政変の度に幾度となく行き場を失った波が押し寄せてきた。当然、先住者との軋轢は避け難かった。日本の西から東へ波が襲い、東から西へ波は押し返してきて、遂には収まり日本国の基礎が成った。 

 豊予の海は少々様相を異にした。ここには南洋の強い波が届いた。そして北側からの大陸の波と出合い渦巻いてやがてこちらも収まった。これらの外から押し寄せてきた最初の波は西国一帯に浸透し海人族と称されて事実上の海の支配者として、その後襲ってきた波によって起こった統一政権を海から支えてきた。

 混交したこれら両民族の末裔達が今も尚、その精神と文化を継承し豊後水道沿岸に棲む。漁労と操船の能力に優れ、古くより海部郡と称されてきた由縁でもある。その寛容と善良と依怙地は度し難いところがある。人々は我慢強い一方で諦めも早い。ただ只管に一所懸命に生きてきた。この風土の中に身を委ねる以外に生きる選択肢に乏しい。姿勢は一貫している。生きる為には「しょうがねえ。」のだ。 

 ただ、この地は華やかな歴史舞台には登場しない。中央権力から遠く、地方豪族にさえ魅力に乏しいその風土の故である。平穏の地と言えばそうであろう。歴史は華々しく光彩を放つ権力闘争や魅力的な文化をこよなく必要とする。だがここにも伝えたい歴史があるのである。 

 地勢と生活文化は不可分である事を言いたかった訳である。 

                                       了