忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

豊後と万葉歌と白水郎と Y2-01

 豊後佐伯湾に浮かぶ大入島を訪問した時に初めてその歌を知った。お恥ずかしい限りである。その歌碑が島の北東海上岩礁の上にある。ここに来て万葉の人々へ思いを馳せる人もいるのだろうか、いるとすれば、どういう人なのだろうと気になってくる。

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 万葉集の歌は4,500余首ある。それだけで読もうという気を削がれるが、現在まで実に多くの解説本が出ている。正直、それさえ選ぶのが面倒である。それでも豊後に絞ってゆかりの歌を探してみると十数首ある。官道を往還する時に眺めやったのであろう豊後の著名な山々(由布岳久住山高崎山)も歌われている。冒頭の海部郡の名も無き民が詠んだ歌もその中にある。万葉集のほとんどは名も無き人々の歌であるが素直で飾らないところがいい。いずれの歌からも別離の想いや愛の情感が染みてくる。ところで万葉の有名歌人も豊後を訪れ歌を詠んだのであろうか。

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 九州、中でも筑紫國(福岡県)には太宰府が置かれた関係もあり、官人として、あるいは宮廷歌人(高貴な人々に随行した)として多くの歌人が訪れている。大伴旅人山上憶良は太宰帥(長官)であり筑紫の国司として同時期に滞在しており、その時に互いに多くの歌を詠んだ。旅人の子、家持もいたかもしれない。当時としては比較的先進地であった豊後にもこれらの人々がついでに訪れた可能性はある。詠まれた歌の場所が特定し辛いので断定は出来ないが柿本人麻呂高市黒人が来た可能性は高い。

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 来たとすれば柿本人麻呂は四国経由、海路で豊後に来たかもしれない。斉明天皇新羅征伐の途次、熱田津(にきたづ:現在の松山市近郊の港)に滞在した。額田王の有名な歌がある。歌人であれば訪れてみたいと思わぬはずがない。

 “熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな”

 ここを出航すれば、その後は佐多岬から対岸の国東半島に渡ったと想定することは十分可能である。豊前側の中津は遣新羅使ルートの寄港地の一つでもあったのである。第7巻1187番歌に出てくる“飽の浦”は国東半島にある安岐の港と比定可能である。高市黒人の”四極山”も研究者の分析によればまずは高崎山である。ならば黒人は来たに違いない。

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 さて白水郎の歌に戻る。白水郎(中国揚子江河口の白水という地名由来か)はアマと読む。まさに海人族の民が詠んだ歌である。海部郡のどこに住んでいたかは特定出来ないが豊後水道の漁民であったに違いない。白水郎に関する歌は万葉集にはその他30首弱ある。山上憶良筑紫国国司だった時にその多くを詠んでいる。筑紫の民衆によるものも多い。筑紫は海人族の有力豪族である安曇氏、宗像氏という海人族の本拠地である。故無しとしない。

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 話はそれる。国宝”海部氏系図”が残る丹後地方は海人族の海部氏の本拠地である。籠神社(元伊勢神社)の宮司は今でも海部氏が継承している。ここの海部氏は豊後から遷って来たとの見方がある。確かに両国には多くの地名が重なって残る(比治、眞名井、大野、三重、蒲江、等)。海人族として真っ先に朝廷側に服属した安曇氏が豊後海岸沿いに勢力を伸ばして来た為、海部氏が他地に遷る契機となったのではなかろうか。山陰地方の丹後を選んだのは、朝廷側(天孫族)の支配が強固となりつつある瀬戸内や太平洋沿岸地域に比較し、そこには未だ海人族のゆるやかな文化圏が残されていたからではないだろうか。

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 一方、籠神社(このじんじゃ)は元伊勢とも称される。海部氏に限らず海神族の豪族は古く天皇家と縁を繋ぐ。天孫族天皇家)も海の大勢力である海人族を取り込まないと国の運営を安定させられなかったのである。航海安全や漁撈を第一とするその海人族が祀る神社は当然ながらその祭神に共通性がある。そして天孫族天津神)とも繋がっている。

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 もう一つ、豊後と丹後には共通の伝承がある。天孫降臨である。万葉集に歌われた豊後の久住山記紀の久士布流(くしふる)や伽耶国の降臨伝説の地、亀旨(くじ)に通じる。この山に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨したというのである。この地は韓国に向かいあっていると古事記にある(「二豊路万葉を訪ねて(NHK大分放送局)」による)。九州では久住山がもっともこの記述に合致する。俄然、久住山の面目躍如である。確かに大野川上流の祖母山は日本書紀には添山(そふり=所夫利=百済の扶余)、宇佐神宮の本殿も亀山(亀旨峰=伽耶国降臨伝説)の上にある。豊後には朝鮮半島と繋がるそれらしき伝承が多いのである。

 一方、瓊瓊杵尊の兄の彦火明命(ひこほあかりのみこと)は丹後の冠島に降臨した。海人族の祖はいずれも伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の系譜に繋がる(ように出来ている)。

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 さて万葉集である。元は全て万葉仮名(音仮名)である。先人達はよくもかな混じりの繊細な文に読み替えたものと感心する。果たして無名の民衆達は口述で歌を詠み残したのであろうか、自ら万葉仮名で綴ったのであろうか、言葉は霊力、呪力を持つ。人はそれを信じ恐れた。漢字の創造もそもそも祭祀用の為である。その意味で万葉歌は古代人の精神世界、呪術世界を表していると言えなくもない。この時代の歌は後代の王朝人のような身に着けるべき教養の一つではない。一心に歌に想いを託しその実現を願ったある種の神聖視すべき祝詞(のりと)のようなものではなかったろうか。だからこそ地元に残る歌を通じて古代の祖先達が願い祈った思いに浸ってみる事が大事である。それは我が祖先の心に触れる神聖な行為なのである。

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 冒頭の白水郎の歌は日本全国に散らばっていった海人族に共通の精神を象徴しているのである。紅(赤)は魔除けの色である。だから紅に衣を染めるのである。海人族にとっては、漁民にとっては、海の危険から逃れる色となる。船に朱を塗る、赤い褌をつける、平家軍船の赤旗、海の人々には紅が大切なのである。

 さあ、己のアイデンティティを確認する為に、大入島の万葉歌碑に詣で、そこでいにしえの先祖達と対話する気になれたのであれば幸いである。