忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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週末に想う

 

 退職後、初めての週末にある。 

 在職中は金曜日の夜から土曜日の朝までの時間がこの上なく好きであった。こういうのを至福の時間と言うのではないか。夜更かしも放題ながら、特に朝の光が部屋一杯に満ち溢れる土曜の午前の時間が堪らなくいい。光が徐々に明るさを増してくることは予め分かっているから、この歳でも、未だ心身に浮揚感が襲ってくる。だが、昼食時にもなると、一転、強く明るい光はやがて下降線を辿り、視界にはちらほらと影が顔を覗かせて来る。心身がその変化を感知して、この至福の時間は頑ななまでに終了する。延長が効かないのだ。光は強く有る事が生命の躍動に欠かせない。それだけの事をだらだらと書いた。 

 土曜の夜から日曜の朝までは、そうはいかない。そういう至福感は何故か訪れないのだ。月曜日からのままならぬ時間に心身が身構えてしまうからだろう。既にその予備的時間が始まっていると言う事である。至福感が憂鬱感に転じていく過渡的な時間でしかない。 

 さて、我が家にはこの至福感を増幅する自慢種が一つある。南面するベランダの前に広がる自然林である。その林を透かしてその向こうには果てない空しか無い。我がマンションは街中の丘の上に立っていて周囲に遮るものが無いからだ。縄文遺跡や移築古民家を配した自然公園に敷地を押し込んで立っている事で、この景観が無償で手に入る。四季の変化が素晴らしい。今は竹林に筍が頭を出し、桜は葉桜に転じている最中にある。鶯の囀りが心地よい目覚ましとなり、つい数日前まではメジロが桜の花に群集していた。 

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 それに、この自然の中に吹く風の音は、街中のそれとは違うのである。これを至福に含めず何としよう。 

 これからは平日にもこの至福の時間が訪れるのだ、とは何故か思わない自分がある。社会的動物の悲しさである。はて、それにしてもこの花鳥風月を想う心の有り様は、かつては無かったような気がする。老いとの引き換えなのだと誰かが囁いている気がした。 

                                       了