忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

ロシアより愛を込めて(続編)

 昨年、別館ブログに”ロシアより愛を込めて”を投稿したが、ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにしてそんな呑気な話ではなくなってしまった。ロシアは昔から好きな国であっただけに猶更に心穏やかでない。愛すべき国であることに今も変わりはないが、そのリーダーと体制への憤怒の思いが尋常ならないのである。筆者の人生においてこれ程の”憤怒の記憶”は果たしてあっただろうか。狂気は理性や倫理の外に巣食うものだから想像かつかないだけに苛立ちが一入である。ここはロシアとウクライナの歴史に思いを馳せて冷静さを取り戻すこととしたい。

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 ウクライナの首都、キエフには正教会の数々の美しい教会建築が多い。10世紀、キエフ大公がキリスト教を国教に定めたことに始まる。当時ルーシ(ベラルーシウクライナ、ロシア)の中心であったキエフ正教会の府主教座(高位の位階)が置かれた。キエフは後にモスクワに府主教座が西遷するまでその中心であったのである。その象徴的な教会が11世紀に建立された聖ソフィア大聖堂である。その名はコンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂(アヤ・ソフィア)に因むと言われる。因みにこのアヤ・ソフィアとローマのパンテオンにはひれ伏してあまりある感動を覚えた(別館ブログ”海の向こうの不確かな美”)。

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 ルーシの名称はノルマン人起源(北欧バイキングのルーシ人)と言われる。8世紀に北方のノルマン人が欧州の南方各地に向けて侵攻を開始する。その一派がルーシと呼ばれ東方スラブに侵入、後にノブゴロド公国やキエフ公国を創設する。ノルマン人のスラブ化である。これがロシアやウクライナの起源である。紛争中のロシアとウクライナが一緒だったのはこのキエフ大公国の頃の9世紀から13世紀のことに過ぎない。日本では遥か昔は平安時代の頃だ。この後、”タタールのくびき”が始まりキエフ大公国は雲散霧消するのである。

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 スラブは大きく東スラブと西スラブに分かれるが、ロシア、ベラルーシウクライナは東スラブ人、ポーランドチェコスロバキアなどが西スラブ人として分類される。主として言語の相違による。宗教面でもギリシャ正教会ローマカトリック教会の違いがある。因みに”スラブ”は西欧では奴隷の意味になった。神聖ローマ皇帝のオットー大帝が10世紀にマジャール人ハンガリー)を討った時にこの地のスラブ人を奴隷として扱った事に由来する。

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 ウクライナは中世ルーシ語で”国”、ロシア語では”辺境”を意味するらしい。キエフとは”丘”を意味するスラブ語のクーイ由来である。この地は森林と草原が接する地でもあったそうだ。つまりモンゴルの騎馬が蹂躙する事の出来る際(きわ)にあった。一方、モスクワはタイガ(針葉樹林)の中にある。そこまではモンゴルも騎馬を使えない。ロシア大公国として生き残った。キエフ大公国ウクライナ)は20世紀まで復活する機会はなかった。この地勢的な相違は随分大きかったのではなかろうか。ともかくロシアは森に逃げ込む事が出来た。

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 “タタールのくびき” (ルーシ側からの表現)は13世紀から15世紀まで約200年間に及ぶ。モンゴルによる征服である。ジョチ・ウルス(遊牧政権=キプチャク汗国)の実質的創設者であるバトウの軍隊に1240年にキエフの戦いでキエフが陥落したことに始まる。東方スラブ世界は長い間、西欧からの隔絶期間を迎える。ルネサンス宗教改革から隔絶し中産階級の形成にも遅れをとり、東方スラブ地域は西洋に比べて大変な停滞を余儀なくされるのである。それでもノブゴロド公国、ウラジミール大公国はモスクワ大公国、ロシア・ツアーリ国、ロシア帝国と余命を繋げていく。不幸にも東方スラブの中心であったウクライナは”タタールのくびき”から解放された後も他国の領土となり20世紀初頭まで自立の道が閉ざされてしまう。

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 ロシアはまだいい。何とか自立の道を模索しモスクワ大公国で生き延びてロシア帝国を打ち立てることに成功した。だがウクライナはモンゴルが去った後もポーランド・リトアニア共和国の下、バルト人のリトアニア公国に支配された。西スラブによる東スラブの支配という事になる。当時、この国はこの地域で最大版図を有し東方のロシアにも侵攻した。ウクライナは17世紀にロシアが併合するまではロシア以上に西スラブと共にあったのである。こちらの方が関係は濃いようにも思われる。そのポーランド・リトアニア共和国も18世紀になると再三に渡って分割され、一時的にせよポーランドはこの世界からも消滅した。ベラルーシウクライナはその時に初めて分離したのである。両国は長い間、そういう東西の狭間で翻弄されて来た。遠い昔、キエフ大公国時代に光彩を放っただけなのである。何とも悲哀の歴史である。今更”ロシアの京都”と呼ぶにはお門違いのような気がしてくる。なんだか我が豊後の歴史にも当てはまるような気がしてきた(”豊後恨み節”郷土史研究No.15)。

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 スラブ、筆者にはノスタルジックな響きを持つ。素朴、その一言に尽きる。例えは悪いがモスクワのウクライナ料理店に入った時にそれを象徴的に感じた事がある。店内には鶏小屋がしつらえてあってウクライナの素朴な農村生活を模していた。ウクライナは東スラブ人にとっての”里山的な国”なのだと感じた記憶がある。

一方、あらためてトルストイの”戦争と平和”が問いかけるものに思い至らざるを得ない。トルストイは、戦争の勝敗は指揮官の命令の良し悪しによるのではなく、民族を構成する”個人の意志の総和”によると言っている(という記事を目にした事がある)。含蓄に富む。ナポレオンがロシアに勝利出来なかった真の理由である。

 ロシアにはそういう先人の思いを継承する人々が生きているのである。そろそろ目覚める頃にある。ロシアへの愛を込めてそう信じている日々である。

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了