忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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プレスター・ジョン(Prester John)と天徳寺 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(25)

 12世紀、西欧では何度も十字軍を発出しているが聖地イスラエルの奪還が中々うまくいかない。それがあってか、東方にキリスト教国を建てた王がいてイスラム勢力を攻め立ててくれている、との噂が流布した。この王がプレスター・ジョンである(無論、伝説の類である)。因みにプレスターは聖職者を意味する。こうしてローマ教皇庁を始めとして西欧によるプレスター・ジョン探しがはじまる。教皇庁は交信を期待し書簡を持たせて使者を東方に派遣する。

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 当初、ジンギスカンもこれに比定された。やがて15世紀になるとアフリカの内陸に本当のプレスター・ジョンの国があると信じられるようになる。エチオピアがその国に比定される。その探索が大航海時代の幕開けの端緒にもなった。

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 如何にもイスラム勢力が腹立たしい。プレスター・ジョンよ出でよ、である。古くより中央アジア北アフリカのいずれにもキリスト教ネストリウス派教徒がいた事は事実である。

 それでも13世紀、マルコポーロの旅(1271年出発-1295年帰国)した時代には未だ東方にその国が残っているに違いないと信じられていた。マルコポーロもその地に立ったと報告している。それが陰山南麓のトンドゥク(中国名”天徳”、現、内モンゴル自治区バヤンノール市近辺)である。フビライ・ハーンはこの地までポーロ一行を出迎えに臣下を派遣している。

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 マルコポーロは、この地の王コルギス(オングト部族長、オングト族はキリスト教徒)はプレスター・ジョンの末裔だと報告している。この国にはキリスト教徒が多く住み、かつ大元国にも一目置かれている、何よりハーン一族の皇女が歴代降嫁する事が決まっている、と信じた風である。

 さてこの中国表記の”天徳”である。何故、この地の名前が天徳であるか、調べたが分からない。キリスト教由来を否定する事も出来ない。753年に唐がこの地に朔方節度使下の鎮軍として”天徳軍”(軍事行政機関)を設置、遊牧民の管轄を担わせている。ネストリウス派はそれ以前、7世紀には既に中央アジア、モンゴル、中国と伝わって来ている。

 中国にも日本にも天徳という元号がある。こちらはキリスト教由来とは言えない。中国では、天子の徳、という意味であろう。日本では周易の「飛竜在天、乃位乎天徳」から取った。無論、天の徳、という意味では、キリスト教の神の意味としても理解出来る。中国にこの地以外に天徳を探せていない。やはりキリスト教由来に軍配を挙げたいところである。

 

 1586年、豊後の大友宗麟は島津の侵攻に対して豊臣秀吉に支援を求めた。その時に”天徳寺”宗麟と名乗った。秀吉の書状にもその名が確かにある。この時、宗麟はキリシタンとして既に受洗(1578年)している。その後、宗麟は豊後津久見に隠遁したがそこに”天徳寺”を建立、キリシタンデウス堂である。取り巻きやこの地の民衆の多くがキリシタンに改宗した。

 現在の大分市に顕徳町という地名がある。元は顕徳寺と呼び天徳寺が訛ったものである。大友氏の居館の隣接地、キリシタン関係施設が建てられていた場所である。この限りに於いて天徳はキリスト教由来と言ってもいいだろう。

 日本の仏教界にはよもやそんな名前の寺は無いだろうと思って調べてみると、何と天徳寺21寺、天徳院9院もあった。仏教界でも使っているのである。はたと困った。

 我が佐伯市にも天徳寺がある。ここに宗麟の墓がある。1614年のキリシタン禁教令を機会にかつての臣下が密かに遺骨を津久見から移した。その観音堂に宗麟が京都大徳寺臨済宗大徳寺派総本山)に寄進した折に正親町天皇から下賜された扁額「随緑断惑」が掛かっているらしい(佐伯史談会資料より)。ならば宗麟の墓で間違いないであろう。ただ、この寺の宗派は臨済宗妙心寺派である。因みに佐伯藩祖・毛利高政キリシタン大名であったがその後棄教している。

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 “天徳”の苗字を持つ人は日本全国で僅か50名しかいない。そのいわれを直接聞いた方が早いかもしれない。地名も町村ベースで日本に4箇所ほど見つけた。こちらはキリスト教には関係無さそうである。

 さて、アフリカのプレスター・ジョンのキリスト教国は黄金の国とも言われた。確かにアフリカ西海岸からは黄金がもたらされていた。その奥地にこのキリスト教国があるに違いない。ポルトガルエンリケ航海王子ジョアン二世(在位1481-1495)のアフリカ沿岸の探検意欲を掻き立てずにはおれない。次々に航海者を送る。結果、バルトメロウ・ディアスの希望峰の発見(1488年)であり、バスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓(1498年)に繋がったという訳である。

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 その延長線上に黄金の国ジパングの豊後”国王”大友宗麟がいた。西欧は遂に極東にプレスター・ジョンを探し当てたのである(この時点では宗麟は未だキリシタンではないが)。この国は金銀銅をふんだんに産出した。ポルトガルは仲介貿易で潤った。加えローマ教皇庁は遂にプレスター・ジョンからの念願の交信書簡と使節(1582年の天正遣欧少年使節)を受け取ったのである。

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 プレスター・ジョンと天徳(寺)の関係を少々強引に結びつけた。そもそもプレスター・ジョンが西欧の伝説であり妄想なのであるから構わないだろう。

 

了