忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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大入島物語 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(46)

 “くるすばで迷走”では、結局、我が柴田姓のルーツを辿る事が出来なかった。ところが見るに見かねてか貴重な情報が届いた。送り主は高校の後輩で実家は柴田姓というから俄然やる気再燃である。

 戦国から江戸初期であろうか大入島の片神浦に柴田三兄弟が落ちて来た。兄弟は片神浦を主家に陸側対岸の坂の浦、更に内陸の旧中野村にそれぞれ分住し今も墓が残る。そう一族に伝えられて来た。確かにいずれも柴田性が多い地区である。ただ、何故、何処から落ちて来たかが現時点では分からない。

 古来、豊後海部郡の浦々には戦乱の敗者が多く住み着いた。大入島はその海部郡で最大の広さを持つ佐伯湾に浮かぶ。元は前島と呼ばれていたが大友宗麟が湾を見下ろす彦岳に鹿狩りを催した際、大きな”入”の字に見えたので”大入島と名付けよ”、となった。惜しい事に縁起のよさそうな”おおいりじま”とは呼称しない。

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 ここで日本の道について考えてみる。周囲を海に囲まれ殆どが山岳である日本には遠方への連続した線としての道は陸には存在しなかったと思われる。精々その多くは一山向こうに繋がる短く切れた線であったろう。国々を貫き連続して繋がる道は律令国家が官道を建設するまでは皆無だったのである。

 一方、海の道は歴史以前から遥か遠方まで存在した。但し、この道は長大な道ではあるが目的地まで一気に移動する点を繋ぐ道であり陸地を連続して繋いではくれない。だから同根の文化や習慣が遥か飛び地に成立する事にもなる。日本の国土が平地であったなら何処までも途切れることのない陸道があり広域な領域支配も容易であったろう。日本の国土交通の特徴である。古事記日本書紀が海の道の支配とその歴史伝承で構成されているのは日本がそういう風土にあったことをいみじくも語っている。

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 豊後海部郡も同じである。海の道が交通の全てであり陸の道は補完的にあっただけである。近世の佐伯藩の幹線道路が今も残っているが畦道と見紛う頼りない道である。

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佐伯藩床木街道(鏡峠を越えて津久見に至る)

 

 浦々は陸の道は相互には通じていない閉ざされた空間であるが、海の道には移動制限は全く無かったのである。

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 驚くべき事に大入島の人達は昭和の時代でも別府までの凡そ50Kmを櫓を漕いで渡っていたとの話を伺った。海の道が気儘で実に経済的であったのである。無論、豊後水道の潮流を上手く利用したに違いない。

 大入島の陸側の対岸にも浦々が連なる。佐伯地方でも古い歴史を持つ地域である。その”前島”である大入島にも八つの浦がある。いずれの浦々も佐伯地方でも独特の名字を持つ。しかも相互に名字が殆ど重複しない。つまり多くの浦で人々は孤立して生きて来た事を意味する。

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 余談であるが浅海井(あざむい)浦は”安曇なる海人族”が再三来航した事に由来するらしい。安曇の由来は筑前糟屋郡安曇郷である。少なくとも佐伯湾は古くより海人族の領域にあった事を示している。安曇氏は信州の安曇野まで進出している。穂高神社の神事に海の痕跡が残っている。後に三浦按針と称するウィリアムズ・アダムズが乗っていたリーフデ号もこの地に漂着している(唐人波石や指夫の地名、エラスムス木像の由縁、海流調査により証明済み)。大友宗麟の狩猟場(巻狩)も三ケ所あった。大入島や戸穴には馬牧や鎌倉の流鏑馬も伝わっている。実に古い歴史に溢れる地域なのである。

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 行政統合の関係で日本各地で古くから伝わって来た地名が消滅しつつある。この湾も同じ状況が現出している。それは文化の消滅、破壊に繋がってしまうのである。幸いにも大入島にはその兆しはない。

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 大入島はこれら対岸の浦々より生活環境は厳しい。対岸ほどには開けた土地も無く、まさに日本列島を凝縮したような山岳島である。後からの移住者にとっての唯一の残された土地であったのである。

 柴田三兄弟はそういう土地の一角に落ちて来た。佐伯湾を囲む北側に蒲戸岬がある。その先端に四浦間元という浦があり、ここに柴田姓が突出して多い。大入島の高松浦の大休庵に残る石塔にこの四浦にある大教寺の銘がある。両地が柴田氏と繋がる証拠であり、四浦経由で落ちて来たとも推察可能である。因みに大休庵には伊能忠敬が宿泊し大入島の測量の指揮を執っている。

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 さて柴田三兄弟は、何故、何処から落ちて来たか。片神浦に残る兄弟の一人の墓には元禄二年(1688年)没とある。1600年代に落ちざるを得ない合戦は大坂の陣(1614)か島原の乱(1637)以外には無い。前者は没年から合致し難い。後者においては柴田兄弟がキリシタン側でないとすれば、責任を取らされ改易された島原藩唐津藩の家臣という事になる。いずれも県下最多の柴田氏の集住地であり可能性は否定出来ない。奥州柴田氏の筑前移住に繋がってくる可能性もある。また柴田勝家の子、勝春は筑前糟屋郡に逃れその後柳川藩の家臣となりこの地方の柴田の祖となっている。三兄弟、没年起点、の条件を満たすとなると現段階の情報においては残念ながらここで打ち切りとなってしまうのである。

 大入島の八浦の地名で気づいた事がある。何故、”片神”浦というのだろう。この湾の北側に彦岳がある。この山の名前は筑前田川郡にある英彦山神宮の神がここに顕現した為、彦岳と名付けた。その麓に彦宮三柱宮を建てた。見下ろす浦の名は宮之浦である。更にこの神は大入島との間の小さな島に飛び移って北岸の松の下にも顕現した。よってこの島を彦島という。その先に片神浦があるのである。神で繋がって来ないだろうか。柴田氏の神職ルーツをつい想像させられてしまう。

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 豊後の柴田氏を整理する。内陸系柴田、海岸系柴田と仮称する。我が旧中野村の柴田氏は大入島からの海岸系柴田氏である事は間違いないだろう。一方、内陸の宇目にも柴田氏が集住するが中野村柴田氏と宇目柴田氏の間には距離的に大きな空白地帯がある。宇目は内陸系三重町繋がりであろう。中野村柴田氏は海岸系とするも野津からの流れも否定するものではない。臼杵は間違いなく大友家臣に連なる野津系だろう。

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 柴田三兄弟の登場によって我が中野村の祖先は日向からではなく海からやって来た可能性が高いと修正を余儀なくされてしまった。何だか”くるすばで迷走”した以上に消化不良感が強い。ここは新たな情報を待つ事にしたい。

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