忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

城山と豊後佐伯城 Y2-05

 「秋の半ば過ぎ、余は紅葉狩りせんとて城山の頂に登り、落葉蕭々の間、しばしば耳を澄まして風の行方を追ひ、我知らず古跡一種の寂寞に融け、行々楽しみたり。

 三十年の昔は、ここに封建の古城立ちぬ。城市の民は月と日とを灘山の肩に迎へて、これを古城の背に送りぬ。

 今は残すところ、ただその石垣のみ。石垣の上、建物ありし跡は今なほ平坦なり。雑草茂り、松生ひ立ち、灌木入り乱れ、荒廃に任せり。満山の樹木暗く茂りて、幽径縦横、猿のごとき少年も時に迷ふことありと聞きぬ。

 余が初めて佐伯に入るや、まづこの山に心動き、余すでに佐伯を去るも、眼底その景容を拭ひ去るあたはず。この山なくば余にはほとんど佐伯なきなり。

 夏の初め、雨晴れたる朝、蝉の鳴くを初めてこの山に聞きて、ここにやうやく日の光の夏らしさを覚えたることありき。

 一犬深夜に市街の一端に吠ゆれば、城山の山彦ただちに答へて、これを他の一端に伝ふ。我これを冬の暗き夜に聞き、古城の妖精夜覚めて頭をもたげしにあらずやと語りしこともありたり。

 一夜強風起こり、庭園の樹木さへ多少の害を被りし時、独り城山に登りて、その背面のもの寂しげなる所に至れば、蔦葛纏ひたる石垣の陰に人の声聞こゆ。近づけば三人の村女、可憐の姿にて折れ枝を集めゐたるを見しより、古城の跡なほ優しき血の通ふがごときを感じたり。

 夕陽をその一角に送り、老鴬のほがらかなる声をその幽谷に聞く時は、我、我を古への民のごとくに感じぬ。

 城山寂たる時、佐伯寂たり。城山鳴る時、佐伯鳴る。佐伯は城山のものなればなり。

 城山は遠く佐伯を囲む諸山に比すれば、近く佐伯に臨む孤立の小さき山に過ぎず。しかもこの山ありてこの城市生い立ちしなり。」(豊後の国佐伯・城山、国木田独歩

 最近、九州の実家から横浜の自宅まで四国、中国、関西、東海と1,200Kmを車で走破した。宇和島城大洲城松山城今治城、能島城、備中松山城安土城彦根城と息継ぐ暇もなく訪れ、遠く離れ行く豊後佐伯城を想った。他国の古城を見るにつけ、我が佐伯城の凛とした姿が立ち現れてきて益々愛しさが一入であった。国木田独歩が1895年に国民新聞に4回にわたって連載した”豊後の国佐伯”中にある”城山”の一節は何度読んでも涙をこらえ切れない。

 備中松山城日本100名城の一つで現存天守12城中、唯一山城である。それまで殆ど見向きもされなかった田舎の山城が、”天空の城”としてメディアに取り上げられると一気に全国にその名を広め人気の城として世に躍り出た。その備中松山城がなんとも豊後佐伯城に重なって見えたのである。山城(佐伯城は平山城の範疇であるが)で縄張りがよく似ている。城郭規模も同じような広さである。山上まで登城するのが不便なため山麓に御殿を移したところまで似ている。前者の天守は二層であるが本丸は石垣が岩上に重なったその上にある為、見応えがある。佐伯城は三層天守であったが現存していたとすれば、同様に見応えがあったであろう。残念ながら落雷で焼失した。

   

 麓の三の丸には昭和まで御殿の一部が現存していた。御殿は今や貴重な文化遺産で現存するものは日本にはほとんどない。僅かに二条城、掛川城高知城川越城に残るのみである。我が御殿は今は移築され市内の公民館に使用されているが、これはこれで驚きである。

 その御殿のあった三の丸に現存する櫓門は知行高(2万石)にしては全国規模の堂々たる城門である。九州でも現存四指に入るとの話を聞いた。

 ”日本の道100選”に選定された小規模ながらもかつての城下町も"歴史と文学の道"(700m)として保存されている。それでも山上にある佐伯城の縄張りと石垣こそが最上だと思うのである。麓に残るこれら遺構の比ではない。世に隠れた逸品ではないか。

 佐伯地方は山林面積が九州でも最大規模である。美しい山々もそこかしこにある。ただ、林道が山々の尾根をめがけてあちこちに張り巡らされ山肌が無残な景観を露呈しているのが痛々しい。城山にもそのような林道もどきの道にセメント張りの補強がされていた。せめてここだけはこれ以上手を付けるのを止めようではないか。国木田独歩が版権を返せと叫ぶに違いない(版権がある訳ではないにしろ)。

 その城郭遺構を写真(借用分も含む)に収めているので紹介しておきたい(後段に掲載)。

 ついでながら佐伯市には毛利高政が入封する前の佐伯氏400年の栂牟礼城祉もある。佐伯城より100mほど高い栂牟礼山上にある。佐伯城から指呼の間にあるがこれもなかなかの遺構である。山上の樹木を伐採すれば素晴らしい姿を現すに違いない。市内に中世と近世初期の山城がお互いを見合うように並立する様は想像するに興奮を抑え難い。林道で山肌を露呈させることに躊躇しないのであれば、今は樹木に埋もれ逝く栂牟礼城を丸裸にすること位は何ということもなかろう。かの大友宗麟が2万余の軍勢をもってしても落とせなかった誇り高き佐伯氏の山城なのである。

 歴史遺産を野に埋もれさせてはいけない。維持管理が何より最重要である。手をかけてこそ文化財となる。何よりもそれは我々の血脈の証でもあるのだから。

<豊後佐伯城の遺構>

了