忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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佐伯の殿様と豊後土工 Y3-05

 「豊後土工」のふるさとは、ただただ息を飲むほどに美しい。豊後水道に面したリアス式海岸がそのふるさとである。

 古来、この地は「海部郡」と呼ばれその祖先は「海人族」を源流とする。近世には「佐伯の殿様浦でもつ」と称えられた漁業の盛んな土地であった。「上浦、中浦、下浦」に分治されたその土地は「九十九浦」とも別称されるほどに多種多彩な海岸線と生活習慣を有す。その生産高は石高に換算すると1万石はくだらないといわれ、佐伯藩2万石の財政はこの”隠れた運上1万石”を産する浦に負うところ多大であった。

 国指定になった「豊後佐伯城」(1606年完成)は“近世に築城された総石垣造りの山城”として全国でも希少な城郭である。鶴翼の如く山頂を抱く石垣は見飽きる事がない。この地方を治めた毛利氏の居城である。

 これに匹敵する石垣遺構がその豊後土工のふるさとに残っている。海面から尾根まで這い上がる急峻な「段々畑跡」がそれである。更に圧倒されるのはこの畑を獣害から防ぐ為に築かれた竜骨のようなその尾根に延々と続く「しし垣」である。日本有数のしし垣である。龍が海中に潜り込もうとするような細長い中浦鶴見半島のウバメガシの樹林の中にその多くが息を殺して潜んでいる。

 近年、この九十九浦は”日本でも有数の出稼ぎ地域”になった。大分県でも圧倒的に出稼ぎ比率が高い。佐伯の殿様を支える程の財力を生んだ土地が何故に出稼ぎに生活の糧を頼らざるを得なかったのか、歴史に語られない民衆の裏面史がある。

 豊後土工(ぶんごどっこ)とは土木工事(特にトンネル掘削)への出稼ぎ工夫達の総称であるが、この地方に独自に発生した血縁・地縁の結びつきによる親方に統制された小規模職能集団である。その出稼ぎ人数は1910年から1980年代に延べ20万~30万人に達し、日本の名だたるトンネル難工事(丹那、清水、関門、青函、黒四ダム等)には必ず豊後土工の存在があったといわれる。トンネル工事は「落盤と発破事故」がつきもので多くの犠牲者を出した。これらの人々はまた、大成建設間組西松建設といった大手土木会社が前近代的な組織から近代的企業へ脱皮していく成長過程を底辺の現場で支えてきたのである。

 豊後土工について調査研究を実施した谷川竜一氏(金沢大学准教授)の資料を借用すると下図の通りである。特に「上浦」が豊後土工の発生地で、「松田菅蔵」が炭坑現場で「掘削技術」を習得し持ち帰りこの分野での親方としての嚆矢となった。やがて生活環境を同じにする九十九浦のそれぞれの地域にこれに続く親方が育っていった。

 

 下表が旧南海部郡(現佐伯市)の最盛時の出稼ぎ人数であるが上浦を筆頭に海岸地方に多い。その職業内訳にある「隧道工夫」がまさに豊後土工である。

 

 豊後土工の主たる出身地となった旧上浦町史にその発展過程が記載されている。既に江戸時代に出稼ぎの萌芽(抗夫)が認められるが、豊後土工が名実ともに経験と技術を盤石にしたのは大正期の「日豊本線建設」への就労である。現JR九州の全線路中、日豊線豊肥線だけでトンネル比率は5割近くを占めるほどで、特に豊後土工の出身地でもある日豊線の県南建設区域(坂ノ市から重岡間)はトンネルだらけの難工事であった。これを契機に日本の高度成長に伴う土木需要(トンネル掘削、発電水路掘削等)に豊後土工が駆り出されていくことになる。

 さて肝心の何故この地方に固有に特殊技術を要する出稼ぎ工夫が発生したのかという点である。豊後土工を生んだ旧上浦、鶴見、米水津各町村史に詳しい。佐伯地方の海岸地方はその独特の地勢が故に戦前期までは陸路がない(孤立的生活)、耕作地が極少(尾根まで達する急峻な段々畑の必然)、生活するには極端に不便な土地柄で漁業以外の生業を求めることは困難であった点があげられる。その漁業もかつての殿様の懐を潤した漁獲高は失われ、近代漁法の導入が遅れたことも生活苦を深めた。近傍の日豊線トンネル掘削の労働需要がその主たる受け皿となり技術習得の場になったのである。

 世に「女工哀史」(紡績工場で働く女性の過酷労働)に過酷な労働環境を知るが、豊後土工の労苦は比較にならない。死と隣り合わせの労働現場であったことが決定的に相違する。加え、前近代的な労働環境(安全軽視、劣悪な飯場)の中、親方を中心にした血縁・地縁による人情の世界が色濃く労働に反映された結果、自己犠牲を強いられた。死をも覚悟しておかざるを得ない男気の世界でもあった。

 豊後土工の悲哀はこれにとどまらない。トンネル掘削による「塵肺の罹災」である。近代的なトンネル掘削技術の登場で豊後土工の活躍の場は失われていく。多くの労働者はやがて年齢を重ね故郷に静かな余生を送ることになるのであるが、海岸地方の男性にあまりに塵肺比率の高いことに地元の医師が疑問を持った。塵肺が社会問題になるきっかけとなった。詳述はしない。

 それでも後輩達はその先輩達の経験と技術を尊びつつ学びつつ職場を近代的会社組織へと発展させていく。今や豊後土工をルーツに持つ会社が全国各地に地元企業として定着しその歴史を継承している。

 さて以上のことを見てくると佐伯の殿様は近代の大手土建業者の成長過程がそうであったと同様に九十九浦の人々の単なる搾取者ではなかったのかと思うのである。「土建王国」と「干鰯王国」は下々への分配をおろそかにしてきたと思わざるを得ない。今や豊後土工の歴史を我が国の産業史に拾い出すことは容易ではない。多くの現存するトンネルに思いを馳せるしかない。

 その九十九浦の人々が生活を営む為に習得してきた「しし垣と段々畑の石積み技術」は豊後土工の土壌になっただろうことは否定出来ない(前述、谷川竜一氏の考察)。ならば、せめてそのふるさとの樹林に埋もれている石垣遺構に光を当て、偉大な先輩達の「顕彰碑」として蘇らせてもいいではないか。その存在に報いることにいかほどの公的資金を費やそうと躊躇うことはない。搾取者の居城「豊後佐伯城」は国指定になった。それ以上に犠牲的精神で国家へ貢献してきた人々が築いたのであるから。

 そのふるさとは、今も哀しいほどに美しい。