忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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存城と廃城(豊後佐伯城サグラダ・プロジェクト考) Y2-04

 前回、”廃仏毀釈”により貴重な文化財が破壊されたことを書いた。今回は同じ明治政府による”城郭取壊令(廃城令)”を見る。

 今やどの地域においても城の欠片でも残っていれば貴重な観光資源となり文化財となる。その建築遺構が現存でもしていればもう大変な騒ぎになる。何しろ徳川時代一国一城令によりそれまで3,000近くあった城が破却され一気に200以下に減少してしまったのである。現存する天守は僅か12城しかない。それだけに城郭は人々を魅了して止まない。日本においては如何に素晴らしい大自然でも城郭遺構にだけは適わないのではないかとさえ思う。

  

 下表に城郭の存亡史を整理した。一国一城令は確かに非情であった。多くの大名家が領内の支城を破却せざるを得なかった。この時に名城の多くも消滅してしまったのである。残された城にもその後不幸が2回ほど訪れる。明治の城郭取壊令と第二次大戦における米軍の爆撃である。ここでも多くの名城を喪失した。だからこそ現存する城郭遺構は貴重で人を惹きつけて止まない。加え戦国武将や江戸期武士道の精神がそこに重なって人々に古の歴史物語を想起させるからでる。神社仏閣の遺構ではこうはいかない。城郭遺構は日本人の魂を震わせてくれるのである。

 さて明治政府による城郭取壊令はそもそも城の破却を命じたものではない。単に”存城と廃城”に分類しただけである。存城とは陸軍省の管轄として国内の軍事施設(兵舎、教練場等)に使用する為の城のことを言う。その目的を満たさないものを単に廃城と称して陸軍省が大蔵省に移管しただけなのである。大蔵省はその多くを入札で民間に売却(天守、堀、曲輪等を別売)、国有資産の売却ということである。天守がもっとも売れなかった。壊してその建築資材を売るしかないが解体費用が莫大となるからである。堀は埋め立てれば利用価値がある。曲輪も旧施設を取っ払えば使える。つまり、政府が城を廃棄させた訳ではないのである。民間の手に委ねた点は今考えれば頂けないにしろ。

 ただ、在城においては曲輪の多くは軍により更地にされ軍事施設に転用されてしまった(当時は軍事は内政であり外政ではない)。これは仕方がない。城はそもそもその時点でも軍事施設なのであるから。ここでも利用価値の少ない天守には手を付けていない。ただ多くの天守は現存させるとしても維持費用が嵩むし明治維新で修復を必要とする被害を受けた状況にもあった。壊すのが手っ取り早いのである。会津若松城は被害が甚大過ぎて自主的に解体してしまった。

 一方、曲輪の多くの旧施設(御殿等)には行政庁(府県藩庁)や学校施設が入り、やがて機能的なものに建て替えられていく。当時は今ほどに民間側にも文化財保護の意識が芽生えていない。城郭は未だ文化財として認識もされていなかったであろう。米軍の爆撃は防ぎようがなかったが姫路城が奇跡的に生き残ったのは幸いであった。多くの城が消滅したのは城郭取壊令のせいではないのである。

 ところで世界の城郭は築城目的において野戦に対してか攻城に対してかの相違がある。前者は日本(一時的退避)、後者は中国や欧州である(都城防衛)。後者は城壁が城郭そのもので、且つ、堅牢な為、多くが現在まで残った。

 

佐伯城サグラダ・プロジェクト(佐伯城復元プロジェクト)

 我が豊後佐伯城について色々と考えた。豊臣秀吉の側近であった毛利高政が1606年に築城した。縄張りは安土城を築城した近江の市田祐定、石垣は姫路城の石垣施工をした播磨の羽山勘左衛門が担当した。標高144mにある平山城であるが山城といってもよい。山頂からは豊後水道のかなたに四国伊予地方の山々が見える展望のよさである。国木田独歩もこよなく愛し毎日といっていいほど登城し小説”春の鳥”の舞台ともなった。”豊後の国佐伯”にも詳しい。縄張りは鶴翼の如く優美、石垣は素朴ながらたおやかで何とも戦国の威風を感じる城郭である。続日本100名城、日本名城100選にも選ばれている。

 

 そこで、友人の熱い思いにも背中を押され、”佐伯城サグラダ・プロジェクト”と称し共に復元構想を練ることにした。城郭復元プロジェクトは今や何処にでも転がっている地域活性化のありきたりのテーマとなってしまったが、ここはそうではない方向を目指すしかない。

 スペインのバルセロナにある教会サグラダ・ファミリアは”いつ完成するか分からない”(1882年に着工)ことで世界的に有名な観光スポットになった。ガウディの奇抜な設計が人々を魅了して来た側面もある。年間、四、五百万人の観光客が未完成の建物を目当てに見物に来る。人間心理は真に不思議である。佐伯城復元もこのやり方でやる手がある。ただし、設計だけは築城当時のままに忠実に金をかけてやっておく。そこだけは資金調達(予算化)をしっかりやっておく。その前にガウディを探さなければならない。

 あとはサグラダ・ファミリアスタイルでやる。いつ完成するか分からないことが肝である。佐伯城を復元するとして一体いかほどの金が必要だろう。100億円と仮定したとして20年かけて建設する事を目指す(5億円/年)。縄張りをいくつかの区画に分けて区画毎に資金調達を行い目処がついたら順次着工していく。20年かけても完成しないかもしれない。それでもよしとする。設計費だけは損金になるが仕方ない。市民の夢の代金だ。それでも城郭の一部は復元出来ている筈だ。

 寧ろ、建設プロセスそのものが売りになり、世間の耳目を集めることがこの構想のミソである。完成しないでも観光客が興味津々でやってくるに違いない。人間心理はサグラダ・ファミリアに対すると同じである。城郭は日本全国どこでも普遍的な観光資源となっていて根強いファンも多い。うまくいけば寄付金を含めてその後の資金調達も容易になるとみる。その時点でこのプロジェクトが既に”完成するか分からない城”として全国ブランドになっている筈だからである。地元産の生きのいい魚の如く、こちらも材料はよいのであるから。

 いずこの地方行政も地域活性化が一様に優先課題であるが、現実は地方交付税と市債が財源で市税は2割を切るだろう。その財源の多くは地域産業への補助金として使われている。投資効果を目指す以前の救済措置と言えるであろう。行政と地域産業が共倒れリスクを負っていると言わざるを得ない。

 佐伯城サグラダ・ファミリアの成功は佐伯地方がその僻地性を乗り越えて全国区になれるチャンスなのである。未来に続く遥かに多くの投資効果を生むに違いない。

 夢を語れないところに未来を創造する力は生まれないというのが筆者の持論である。

了