忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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恨めしや太閤秀吉、佐伯は負けぬ 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(30)

 豊後佐伯藩(2万石)の江戸上屋敷門が東京に残っている。愛宕大名小路から移築したらしく、東京都の貴重な文化財とのことである。2万石にしては立派な上屋敷であったに相違ない。江戸駐在経費も結構なものであったろう。地元豊後佐伯市にも県の文化財として立派な櫓門が今も残っている。いずれも我が海部郡の在方(農村)、浦方(漁村)からの租税が注ぎ込まれた訳である。佐伯藩の財政基盤を振り返らざるを得ない。

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 豊後佐伯藩の城下町は番匠川による三角州を見下ろす山裾に佐伯湾を見晴るかすように広がっている。この三角州はかつては塩屋村と呼ばれた製塩地帯であった。城下には水路が巡り川と海と三角州に囲まれた防御に相応しい地でもあった。

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 前回報告の通り、豊後は九州一の最貧国であり、その豊後にあっても佐伯藩のある海部郡は更に生産性の低い地であったことについては数値的には否定し難い事実である。果たしてそうであったのか、詳細をみてみる。

 下表は豊後各藩の中での佐伯藩の幕末における経済規模(石高)である。人口の割に石高が低い為、一人当たり生産性が極めて悪い。海部郡には豊後の中でも唯一、浦方(漁村)を行政単位として別管理の対象としている。海部郡の由来はそもそも海人族の棲む地域である。この別管理こそ海における生産活動が大きな経済基盤として認識されていた証左であろう。人口構成でも在方(農村)と浦方(漁村)の比率は53%:41%であり農業以外の漁業活動による生産力が大きかったかを示している。

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 残念ながら漁獲高の具体的な数値がないので石高相当を把握できないが、他藩には”佐伯の殿様、浦でもつ”と羨ましがられ、その経済規模は石高に直せば数倍規模だったとの話もある。佐伯藩は網、船、漁場等に対して一定の税を課したことはいうまでもない。いわゆる運上である(一般的に漁場の利用権として規定石高払い、漁獲高の一定額払い、であろうが消費市場が近くにあると無いとでも徴税対象・方法は相違するはずである)。佐伯藩の場合、例えば鰯小引網一条で年間銀650~700目(物納で干鰯80俵相当、16貫/俵、米換算で10石程度)だったとの記録もある。網数がどれだけあったかは想像するしかない。

 佐伯藩の干鰯は西日本では高い評価を受けており大阪商人にとっては優良な取扱品でもあった。干鰯を絞った油も燈油としてよく売れた。”今日は鰯が海の蓋になっている”、“佐伯の浜には黄金が躍る”、とまで言われた豊穣の海であった。地名にも鮪浦(しびうら)とあるようにマグロ漁も盛んであった。とにかく魚は種類といい量といい無尽蔵と言われた。通常の米経済の世界からは想像がつかない出来高(漁業関連生産高)は藩にとっては虎の子であったに違いない。

 一方、在方(農村)の正味の生産性についてはこの浦方(漁村)の人口を除外して再検証しておく必要がある。結果は0.8石/人と豊後平均並みにはなるが及ばない(表2)。

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 各村の生産性は表2(村別生産性比較グラフ)の通りであり豊かとは言えない。米一石は一人が一年間に食する量であることを考えると、1石を切るような生産力では人は食っていけない。貧しい数値であることは間違いない。

 但し、在方(農村)においても森林資源は浦方(漁村)の漁場同様に豊かであった。こちらも木材、産炭、製紙、養蚕と山からの生産高も確実にあった。特に製紙(佐伯半紙)は年貢を補った。米生産だけで比較すると話にならないが、山林資源、漁業資源の観点からは決して他藩に引けを取るものではなかったといえるであろう。それが人口の多さ(約68千人)に現れているのである。

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 更に行政単位(郷村)別にみてみる。表3は朱印高(幕府への報告石高)と実高(藩調査による租税対象石高)を併記したものである。豊かな郷村(平地部)からは実高に見合う税を徴収しており、山村では実高は朱印高より低い(山林による生産物が補ったことは容易に想像できる)。一方、在浦(漁村)の下浦、中浦には実高(浦数に比べれば少ない)も計上している。これが漁獲高見合いの運上ということになるのかもしれないが、それにしては少な過ぎる(未だ検証出来ていない)。

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 次に在方、浦方の郷村の人口をみる。在方は当然、実高に見合う人口を有している。浦方では下浦の蒲江浦に人口が集中している。前回、都市人口にて報告の通り、室町期には豊後では有数の都市人口(5千人)があったところである。海外からの交易船の南ルートの経由地であり栄えていたことがうかがわれる。この地には海を通して他地域(紀伊、土佐等)との交流の歴史も古い。対外的に発展した港町でもあったのである。

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 以上、我が海部郡佐伯地方の生産性について完全ではないにしろ実態を俯瞰した。豊後の中にあって当該地方は唯一、他者の侵害や収奪を受けず、民衆は古来より自立した経済基盤を保有し続けてきた。薩摩島津氏が豊後を蹂躙しようが、太閤秀吉が大友氏を改易しようが、誰もこの懸崖の地に手を出すことは出来なかったという事実はある。

 

 秀吉の太閤検地の意義は実際の米生高の把握(農地の実測と等級付け)により納税対象を明確にした点にある。また貫高から石高へと米生産高を経済の基本にする効果があった(米による信用経済の創出)。国力の主体(税の主体)の実態把握を行った点では評価せざるを得ない。

 ところがどっこい、我が海部郡は、古来、漁撈の民のものでもあった。ここに手を付けなければ、この地方の実高は把握しようがないのである。しかもその生産力の割合が高い。他国にはあまり見られない経済体制であろう。江戸期にわざわざ豊後海部郡だけは浦数を別扱いに管理せざるを得なかった背景でもあろう。

 律令体制から大名領国体制に至っても経済の基盤を海にまで展開しようという為政者をあまり見ない。そこに豊穣の富が埋まっていようとは海部地方の民衆しか知るよしもなかったのである。我が地方の民衆にとっては、支配者や他の豊後の民衆ほどには、秀吉に恨みをもつ必然性もない、といえそうである。使い勝手のよい太閤検地の結果と理念をそのまま踏襲した徳川政権は更に海から目を背けることを選択してしまった。この地方の幸いであろう。

 佐伯の民衆だけは太閤にも負けなかったといいたかった訳である。

 

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了