忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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ふるさとの人々 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(37)

 番匠川は豊後海部郡・佐伯地方を東方の豊後水道に向かって流れ下っている。豊後では祖母傾山系を源流とし別府湾に向かって流れ下る大河大野川に次ぐ規模の川である。

 その源流から主要な流域に亘って昭和初期まで因尾村と中野村があった。両村は合併され本匠村(現佐伯市)となったが固有の生活文化はそのまま現在に至るまで維持されてきた。筆者はその旧中野村を故郷とする。

 大神佐伯氏時代(16世紀末まで)、佐伯藩毛利氏時代(江戸期)を通じてのこの村の政治社会的役割を振り返る。

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 生活規模を推し量る人口は、過疎化、老齢化の進展で江戸期、戦前に比較し激減した。戦前から約八割減には驚きを覚える。日本の地方が抱える問題の典型例であるが、この地は更にそれ以上の衰退途上にあるといえる。

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 人々の暮らしの基となる地勢はと言うと以前報告の通り佐伯地方は付加体の上にある。山岳地帯を形成し平地に乏しい。農業には不向きな土地である。付加体が北に向かって競り上がったその西北の縁に旧本匠村がある。600mを越える山稜が連なっており、古来、この地の支配者にとっては天然の防衛線となる地域でもある。中世、佐伯氏は旧因尾村に武士を土着させ防衛の任を担わせた。16世紀の豊薩戦の際にこれが奏功する。薩摩勢の侵入を阻止した。  

 佐伯藩そのものもこの村に同様である。隣国への出口に乏しい。険しい峠道よりは海路に依存することになる。エネルギーは外に向かって行けない。内部に籠る地勢である。隔絶の独立地とでもいえよう。

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 さて、旧因尾村には古くは平安時代初期まで遡り時代時代を通じた歴史史跡が多く残る。防衛拠点としての役割に由来するのかもしれないが未詳である。熊野修験道にも通じる自然崇拝を迫られる地勢故なのかもしれない。一方、旧中野村には佐伯氏が去った後に遺臣達が逃れ住んだ痕跡が残る。山向こうの豊後最大のキリシタン地方、野津からも宣教師が逃げ込んで住んでいたとの伝承も残る。この地は隠れ住むにも適地であったのである。皮肉にも自然景観は圧倒的である。国木田独歩もこの地まで二度までもトレッキングしている。

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 この村に入るにはほぼ峠越えとなる。いずれも六百米峰の山岳越えである。物流は番匠川の利用しかない。明治、大正になっても江戸期の交通インフラそのものを利用した(はずである)。筆者の幼少期にも河谷の斜面を彫刻刀で削ぎ取ったような車のすれ違えない細い砂利道が通じていたに過ぎない。

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 その懸崖さは起伏図に一目瞭然である。

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 山の人々はこの厳しい地勢から、植林、炭焼き、椎茸栽培、養蚕、製紙と殖産に知恵を絞った。ただ、これだけでは暮らしが立たない。日雇い、出稼ぎで生活を維持した。この地の最大の生産価値は忍耐強く寛容の精神を身につけた人そのものである。良質の人材そのものである。この点だけは他の何処にも負けはしない、譲れない。

 旧本匠村では、昭和58年(1983年)に、明治、大正に生まれた人々にその人生について語ってもらい文集として残した。この村の生きた歴史記述でもある。この地の実情と厳しい生活者の暮らしぶりが炙り出され、ただただ感銘の一言に尽きる。郷土を守りその生活文化を後進に繋ぐ為に舐めた辛酸を思い感謝無しには読めない。144名の人生が滲んでいる。

 その過ごした人生を、村の仕事、生活環境、生活インフラに整理した。特にその生活環境のやるせ無さは読むに辛い。救われることは、人々が一様に今が人生で最も幸せだと明言している事である。子や孫の手厚い世話に過去の苦労は帳消しだと笑っている。国から年金を貰えることの有り難さに頭を下げている。現金を得ることの辛さの裏返しである。第二次大戦では162名の戦没者を出した不幸はあったが、これらの人々が生きていた時代はこの国も人々に少なくとも心の豊かさを感じさせてはいたということである。政治家は老齢者に感謝される国の在り方を知らねばならない。

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 歴史上、本格的にこの懸崖の独立地を襲った外部勢力はアメリカ(佐伯海軍航空基地への爆撃)と薩摩(豊薩戦、西南戦争)のみである。特に西南戦争の政府軍との攻防はこの地の全てを覆い人々の記憶と土地に痕跡を残した。旧本匠村も例外ではない。この村の最奥の三国峠で薩摩軍は政府軍の待ち伏せに遭遇し一敗地に塗れた。これ以降、坂道を転げ落ちる様に日向山岳地帯を鹿児島に向け敗走を続けることになる。かつての島津家久のこの地への侵攻への恨みとは違い、人々は薩摩兵の哀れに同情を寄せさえしているのである。旧佐伯藩の生き残りの一部も義勇兵として薩摩軍に加わっている。新選組隊士で剣の達人、斎藤一も政府軍としてこの地に転戦し負傷した。一刀斎夢録(浅田次郎)の主人公である。

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 このままではこの地の呼吸が止まってしまう。仲間と共に密かに”本匠振興組”を立ち上げた。あのふるさとの人々とその精神を今に甦らせる為に行動を起こしたい、皆、その一心である。その為には、まず言葉を復活させなければならない。ふるさとの人々が紡いできた言葉を喋れる様にならねばならない。祖父母達が日常的に使用してきたふるさとの言葉を半分も知らない己に愕然としたのである。その言葉を今は無性に愛しく思うのである。

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 この地が心を捉えて離さない。なんともせつないことである。

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了