忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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笑わない佐伯の歴史1、先住民族と遺跡

<笑わない佐伯の歴史>

 NHK番組「笑わない数学」に触発されて「笑わない佐伯の歴史」をカテゴリーに追加することにした。「笑わない数学」は、数学はとっつき難いので諦めたという人を対象に、”片思いの恋、わからない快感”に通じる番組に仕上げている。歴史も同じようなものではないかと。郷土の後進に届けるべく、また、「果てしなく美しい豊後の国佐伯」を知ってもらうべく。内容は、原則、昭和26年に発行された「佐伯郷土史(増村隆也著)」に拠ることにし、これに個人的考察を加えた。

 

1.        神武の帝の東征(神話時代)

 日本では「記紀」が最古の歴史書である。紀元前7年、神武天皇、諸皇子を率い日向発、速吸門経由宇佐へ、とある。速吸門(豊予海峡)に至り「国津神・珍彦(うづひこ)」が現れ水先案内を申し出る。神武天皇はこれに「椎根津彦」の名を賜る。

 佐伯地方では旧上入津村・畑野浦の「伊勢本神社」の御神体として神武天皇が使用した「水入れ用の古土器」が伝わる。大入島日向泊には一行が水の補給に立ち寄った「神の井」が残る。神武天皇が弓で掘った。

 佐伯地方の校歌にも東征に関する詞が多い。ここではこの東征が「海人族(航海術に優れる)」の協力なしには実行不可能であったことを理解しておきたい。

 いずれも「史実」か否かは証明しようがないが否定する根拠もない。

   

「トロイの木馬」 Y3-08 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

海人族と神武東征 Y3-01 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

 歴史書以上に「事実」を伝えるのが考古学や民俗学による考察である。

2.        洞窟は何を語るのか(石器時代

 佐伯地方には実に多くの洞窟がある。かつて旧本匠村・宇津々の「聖岳洞窟」で発見された人骨は旧石器時代のものだと騒がれた。同村・風戸の「白谷洞窟(佐伯地方最大の洞穴)」や戸穴の「宇土洞窟」なども原始民族の住居跡と伝わる。「景行記」に関する「豊後風土記」の記述より、宇土洞穴は「土蜘蛛」の棲んでいた穴とする見解もある。

 羽柴弘氏(元佐伯史談会長)も古代人が住居として使っていただろうと思われる佐伯地方の洞窟を列挙したが、今はいずれも考古学的視点においてさえも振り返られることが少ないのではないか。

3.大分県最古の集落遺跡(縄文時代

 平成21年、東九州道建設中に大越川左岸に「森の木遺跡」が発見された。縄文早期、約九千年前の遺跡で「大分県最古の集落遺跡」といわれる。26棟の竪穴式住居跡があり、姫島産の「黒曜石の石核」も出土している。縄文時代には既に佐伯地方と遠方との「海の交流」があったのである。

4.        古代産鉄王国サイキ(弥生時代

 昭和20年、旧下堅田村・汐月の長良神社のある丘の東側が大雨で崩れ貝塚が発見された(第一長良遺跡)。その後、長良神社裏側にも発見されている(第二長良遺跡)。昭和23年には、下城台地の東側にも貝塚が発見された(下城遺跡)。下城台地の西南端では「日本で初めて製鉄跡が発見」されている。製鉄遺跡としては完全形態を保持しており、鉄を延ばす台石、フイゴ、釘、鉄滓などがそっくり残っていた。その後、長良遺跡でも鉄鎌が発見され同様に製鉄の痕跡が確認されている。ここでは麦の繊維と麦の炭化物も発見されており農耕が行われていた証拠である。

 いずれも弥生時代前期の遺跡で製鉄が最初に伝えられた北九州と時を同じくして佐伯地方に「鉄文化」が伝えられていたのである。ここでも佐伯地方と遠方との「海の交流」が窺われる。

 佐伯地方には「鉄に由来すると思われる地名が多い」、という視点からの佐藤巧氏(前佐伯史談会長)の「今、佐伯の古代が見えてきた(古代産鉄王国サイキ)」は興味深い考察である。 

鉄の来歴に想う 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(11) - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

5.        海の首長達(古墳時代

 前掲図の通り佐伯地方の古墳は海岸近くに多く残る。いずれも大規模なものではないが、この地方を支配する小首長の存在を示している。古墳に納められた棺にはいくつかの種類があるが、「岡の谷古墳(下久部)」にあった「舟型石棺」は東禅寺の手水鉢に借用されているらしいが本当なのだろうか。

 同じ時代の大分県最大の「前方後円墳」は大分市坂ノ市駅近くにある「亀塚古墳」である。「海部の民(海人部)」の首長の埋葬墓といわれる。大野川から佐伯地方を含む豊後水道一帯に水運と漁撈を専らとする海の民が広範囲に行き来していたのである。

 因みに世界最大の石棺はエジプト・サッカラの階段状ピラミッド内のジュセル王のもので高さが3mもある。

6.        まとめ

 「佐伯郷土史」を著した増村博士は結論している。「2千年前に既に弥生式土器を持つ民俗が集団を為し下城台地に居住、農耕、狩猟、漁撈を為し鉄文化を吸収して鉄の利器を作っていた。下城、長良の一帯は考古学的稀有の宝庫である」と。

 一般的に発掘遺跡は調査後は埋め戻され埋蔵物文化財として保存される。だから直接見ることが出来ない。今やこれらの遺跡の存在がどれだけ知られているのか怪しいものだが、将来の埋蔵文化財がこれからも発見される可能性はある。

 先住民族は我々の遠祖である。太古より海に生きてきた人々が棲み、この地が「海部郡」と称されるに相応しい「事実」を残してくれている。その遺跡を大切に守っていきたいものである。

<補助資料>