忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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笑わない佐伯の歴史2、熊襲征伐と佐伯地方

1.景行天皇、豊後に上陸す

 日本書紀中の景行天皇(第十二代、実在不詳)の事績を記した部分を「景行記」という。ここに九州遠征(熊襲征伐)の記述がある。「熊襲」は東北の蝦夷同様に九州南部に住んでいた大和王権に従わない勢力である。

 景行記の豊後に関する要点は、碩田国(おおきだ、大分)に入り速見邑の「速津媛(海人族の族長)」に迎えられ、「鼠石窟(鉱山の仮称か)」に住む「土蜘蛛(在地勢力、鉱物資源を巡る敵対勢力とも)」を退治して欲しいと頼まれる下りである。

2.水行説

 景行記に、唯一、佐伯地方と思しき記述がある。「穂門郷」に御船を寄せて「最勝海藻(ほつめ、美しい海藻)を取れ」という部分である。一方、豊後風土記に一行は「周防の佐波津から「海部郡の宮浦」に上陸したとある。これにより上陸地は佐伯地方の狩生の「宮ノ内」、あるいは米水津の「宮野浦」と解釈する説が出てくる。そして天皇は水行(豊後水道から日向へ)して日向高屋宮に入ったとみるのである(景行記では水行か陸行か不分明)。

 地元としては水行を取りたいのはやまやまであろう。神武天皇が東征した海路(豊後水道)が目の前にある。それを逆行して日向に入るのはおかしくないし、景行天皇の息子のヤマトタケルも水行して日向(延岡)に上陸したのであるから。ただ、佐伯地方沿岸には上浦地方を除き神武東征が残したような景行天皇巡幸の伝承地はない。

3.陸行説

 景行記をそのまま読めば陸行したであろう事は否めない。速見郡直入郡、大野郡と土蜘蛛退治の記述がある。上陸地宮浦は「佐賀関湾(上浦)」に比定される。ここには「早吸日女神社」がある。だから速津媛は速吸日女のことだろうとの見方も出てくる。この一帯は海人族の拠点で早吸日女神社も速吸門(豊予海峡)も神武天皇に縁が深い。大和王権は神武以来海人族の支援を必要としてきたのである。

 陸行となれば佐伯地方の宇目に残る景行天皇の伝承が、俄然、真実味を帯びてくる。宇目の由来は景行天皇が梅が咲き誇っていることを愛でたことによる。日向に入るには大野郡から宇目地方を通るのは妥当である。後に官道が通ったのであるからより説得力がある。宇目には、御泊、悪所内、血内などの地名も残る。まさに土蜘蛛を退治したような名前ではないか。ただ、景行記には一切記述がない。これらの地名は神武天皇の伝承地として重複している点でやや信憑性を損なう。

4.水行説を強引に押してしまえ

 仮に身贔屓で一行が佐伯地方に上陸したと解釈してみよう。景行天皇は車駕に乗って速津媛と会う。狩生地区の車(天皇が車駕を留めたところ)、上浦の津井、夏井は速津媛が住み治めたところ、蒲戸崎の近くの舵掛(天皇の船が転覆)、鎧ばえ(鎧を乾した)、八幡地区の宇土洞穴(土蜘蛛の住んだ鼠石窟)、首山(土蜘蛛の首を埋めた)など、景行記の記述にも概ね合致する。少々遠方だが蒲江西野浦に早吸日女神社もある。加え、この湾(入津湾)は神武天皇の伝承が多い。

 広域には陸路が通じていない当時の交通手段としては水行が現実的なのである。

5.まとめ

 一行が穂門周辺(四浦半島、上浦)までは来たとしてもそのまま水行せず、佐賀関まで戻って陸行したと考えた方が無難であるが、何故、この地まで来たのであろう。佐賀関から佐伯地方までの沿岸地域は海人族の勢力圏である。一方、豊後の内陸部は土蜘蛛(敵対勢力)がいる。これに対抗するために協力者である海人族の勢力圏を視察したとしてもおかしくはない。

 佐伯地方に残る神武東征や景行天皇巡幸の地名伝承は、その高名にあやかりたいとの後世の佐伯地方の人々の思いによるものなのだろう。それだけ中央から遠く離れた僻遠の地に住む人々の切実な思いが伝わってくる。

追記:景行天皇と佐伯部

 景行天皇の時代に蝦夷の俘囚を「佐伯部」として西国(播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波)に移住させている。佐伯地方の後背地は熊襲大和王権への対抗勢力)の勢力地であり、協力者である海人族の支配する佐伯地方に伊予から佐伯部が分駐してきたのであろう。佐伯の名前の由来である。景行天皇墓所は高穴穂宮、大津市穴太にある。海人族や渡来人と縁のあるところでもある。

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