忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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文人墨客来たれ、されど佐伯は遠し 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(35)

 豊後佐伯地方は人や物流の要路から遠く離れ、極めて僻地性の高い地である。すべて地勢の閉塞性による。ただ、海上だけは、唯一、外界への開放空間であった。この特異な地への歴史的著名人の往来の中に何か新たな発見でもないものか考えてみた。

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 まずは古代から江戸期までの旧街道との位置関係を見る。豊後には主要路が2街道ある。豊後街道(熊本~鶴崎間)と日向街道(中津~佐土原間)であるが、後者は利用度においては豊後街道ほどではなかったと思われる。佐伯城下からこの二つの要路は遠い。佐伯城下を人や物が通過しないのである。このハンディは大きい。最も近い臼杵城下まで直線距離で約20Km、陸路30Km、海路90Kmとなる。

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 佐伯城下からの各地への路程を江戸期の資料に基づき下表(陸路、海路)に整理した。古来よりこの路程は変わらないものと考える。江戸期前までは豊後の中心都市であった府内(現大分市)に出るにも約60Km、海路では約130Kmとなる。戦国時代、佐伯は他国の要地へ戦闘行動を起こすにも中々につらい位置にある。自領の最南端、日向に国境を接する要地・波当津(港)へも海路は90Kmと隣国臼杵城下への海路より遠い。豊後水道を横切って眼前の伊予と交流する方が容易で便利だったことは想像に難くない。

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 この地方への人の往来を時代を遡って俯瞰する。まず、下図は、歴史以前の海人族の海上移動ルートである(筆者の推測)。西方や南方より豊後水道沿岸に多くの人が来着し移り住んだ。同様に生活文化を共有する”海の人々”が各地に移動していった。地名にその足跡が残っている(図①)。神話の世界の話とされているが、神武天皇も佐伯地方を経由してこの海の道(海人族の移動ルート)を通り大和地方に東征していった。一応、この地にもいくつかその伝承(遺跡)も残っている(図②)。東征ルート上の他の地方にも同様の伝承が残る。

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 歴史時代に入ると国内の覇権獲得競争に負けた多くの氏族が各地に落ちていくが、佐伯地方にも多くの人々が逃れてきた。平氏の落人を端緒に戦国期には中国、四国の有力氏族がこの海上ルートを経由してこの地に落ちてくる。多くは水軍を擁した氏族である(三島、河野、法華津、長宗我部、等)。かつて東上していった海人族の末裔達である。要は亡命者であるが、この地には強力な庇護者はいなかったが、何より逃げ込むには最適の安全地帯(僻地)であった為であろう(図③)。

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 さて、江戸期に書物蒐集癖のある藩主が現れた(好学の三大名の一人:八代・毛利高標1755~1801)。この藩主が佐伯文庫と藩校・四教堂を起こしたことが、外界の教養人に対して初めてこの地の魅力を発せしめた。蒐集した多くの書物が徳川幕府に献上されるに及び、これら書物は江戸の文人達の垂涎の的となり、佐伯藩と佐伯文庫の名声を大いに引き上げることになった。人々が訪問してみたいと思う価値をついにこの地に創造したのである。魅了された一人に広瀬淡窓がいる。14歳の時に遠路日田から四教堂教授の松下筑陰に教えを請いに来た(図④)。

 その学問の土壌は明治期に矢野龍渓経国美談の作者)を生む。この人の紹介で国木田独歩が佐伯に教師として赴任してくる。独歩は今や佐伯市の”最大の文化ソフト”になっている(図⑤、⑥)。独歩はこの地の"僻地性"を”自然と精神の調和を生じさせる地”に変貌させた。如何にソフトの導入が地域活性化に重要であるかが分かろうというものである。但し、その為には多くの時間を必要とすることは言うまでもない。小手先の対処では駄目なのである。ともかくもこの地はその”地勢”が故ではなく、初めて”知性(文化)”が故に注目された訳である。

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 この土壌は近代に至っても、決して著名ではないが、多くの文人を産みだした。彼らは中央の文人達に価値ある影響を及ぼした。中でも佐伯市出身の英文学者・工藤好美とその妹千代は放浪の自由律詩句の俳人種田山頭火の人生を変えた(ようだ)。

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 山頭火昭和5年以前の一切の日記を焼却した為、それまでの動向が不明である。工藤兄妹との関係はその時代に生じている。中央文壇からはその時代の考証成果への評価は聞こえてこないが、佐伯市の無名の山頭火研究家が地道な調査を行い新たな事実を発見、考証した。山頭火は、何故にそれまでの日記を焼却したのか、何故に、行乞(ぎょうこつ)(托鉢)を通じての発句に前向きの姿勢に転じたのか、その理由が明らかにされている(古川敬、”山頭火の恋”)。良書である。

 また、佐伯市出身の歌人・加藤勘助は武者小路実篤に日向での”新しき村”開村を決定せしめ共に移住した。その行跡(図⑦)とこれまでの佐伯と文人の関係も示す(図⑧)。

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 僻地性を克服する手段をここに見るのである。人を魅了するとはどういうことかに思い至るのである。それは自然美・景観であるかもしれないが、それ以上に人間そのものの魅力に他ならない。それを産み出す土壌にこそある。人を惹きつける魅力ある人間がそこに住み、あるいはそういう人間を絶えず産みだす風土がある。それこそが人を魅了し、ひいては地域活性への要諦だと改めて確認出来た次第である。

 

 さて、この地方の特異な地勢は、古来、多くの人々を受け入れ独特の生活文化を生み出してきたが、それが不幸をもたらした事実にも触れておく必要がある。近代国家による軍港への利用である。海軍航空基地の設置である。歴史上、初めて国家の注目を集める場所となった。初めてこの地勢が国家の為に役立つことになったのである。本来であれば栄えある喜ばしいことである。ただ、佐伯の人々はその故に米軍の空爆に晒されることになる。

 連合艦隊司令長官山本五十六はこの地から真珠湾攻撃の発進命令を出した。かつての唯一の海上への解放空間は、海人族の海上の道は、この地から日本国家存亡に繋がる道に変貌してしまったのである。それはそれで忸怩たる思いを払拭出来ないのである。武人より文人を魅了する地であって欲しいものである。

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