忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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海人族と神武東征 Y3-01

 全国には「和田」がつく地名が実に多い。概ねその多くはかつて海人族(あまぞく)が殖民した地である。海人族の祭る神(祖神)は「大綿津見神」であるが綿(ワタ)は海を意味する。和田はワタが転訛したもので、輪田、波多、畑、半田、八田なども同様である。よって大綿津見神を祀っている神社も全国に多い。

 海人族は航海術や漁労に優れた民で歴史以前より日本各地に移住し殖民しそこで共同体を営んできた。やがて海部(部民)として朝廷に仕えることになるが、今でも海部郡として地域名にも残っている。そこは海人族の末裔が住む地なのである。海幸山幸、浦島太郎、羽衣伝説、竹取物語などは海人族由来の伝承譚である。それほどまで海人族の精神は古代よりこの国の民俗に深く根付いている。

 

 さて、古事記日本書紀に神武東征の事が記されている。神武天皇が実在した人物であるとないとに関わらす、西日本各地に一行が通過していった痕跡が今もその地名や伝承として残っている。少なくとも何某あるいは何らかの勢力が東に移動して行った事実は否定しようがない。

 海路による神武東征は海人族の手助けなしには成就しなかった事は明らかである。神武天皇の祖となる「日向三代」は海人族の祖神である大綿津見神の娘を二代にわたって娶っている。神武天皇が東征を決意したのも海人族の「塩土老翁」の建言による。記紀壬申の乱を制した天武天皇の命で編纂されたが、偶然にもその諱は「大海人」である。幼少期に撫育された海部(海人族)の凡海氏に因む。

 

 1940年は神武天皇が即位して二千六百年の年に当たり国家的行事として皇紀を祝った。紀記によれば天皇は紀元前660年に大和橿原宮で即位した。事実とすれば時は弥生時代のことになる。

 神武天皇(東征の時点では未だ神倭伊波礼毘古命、諱は彦火火出見命)は日向美々津から船出する。美々津は良港でもあるが造船用の木材が豊富で造船技術者集団がいた事も理由であろう。それ故に二十世紀になって美々津は日本海軍発祥の地にされてしまった。

 東征の目的は「東にある豊葦原中国を平定すること」であるが、稲作やその灌漑技術や鉄器を伝播させていく旅であったとも言われる。何しろ日本書紀では東征に16年を要している。確かに稲作伝播にはそれぞれの地に一定期間居着く必要はある。我が国は「豊葦原の瑞穂の国」なのである。

 東征は海路である。古代には未だ官道など整備されていない。陸地には遠方とを繋ぐ道など無い。仮に弥生時代とすれば大それた大航海である。美々津から豊後水道を経て瀬戸内海に出る。安芸で十数年を過ごし、やがて浪速の地に上陸するが、地元勢力に反撃され撤退を余儀なくされる。それではと海上から遥か紀伊水道熊野灘に出て熊野から再上陸する。紀伊山地を越えて豊原中国に入り対抗勢力を討ち遂に橿原宮で即位するのである。仮に古墳時代のことであったにせよ航海術を身につけた人々無しにはこの大航海は困難であったろう事は明白である。海人族との連携は欠かせない。

 海路とはいえ陸地を伝いながらの行路である。行く先々で水も食料も補給しなければならない。だからその途上に神武東征の伝承が多く残っていて不思議ではない。我が佐伯地方にも神武東征の伝承地がある。水や食料を補給したのであろう、「神の井、居立の井」などの名がついている。

あるいは荒海を回避して逃げ込んだ入江だったのであろう、入津湾の「畑野浦、伊勢本神社、江武戸神社」にその由縁が残っている。この地方に今も残る畑野浦、吹浦、福良などは一般的に海人族由来の地名でもある。何よりかつて豊後水道に面したこの地方は「海部郡」と呼ばれていた。海人族の棲んでいた土地なのである。

 古代海人族は、宗像系、安曇系、隼人系に大別されるが、安曇氏がこれを統括していくようになる。豊後国海部郡は地勢的に元々は隼人系ではなかっただろうか。だとすれば海人族の中では戦闘的集団である。

 佐伯湾に浅海井(あざむい)という地名がある。安曇氏が制した地であるからとも言われるが定かではない(あずみがあざむいに転訛)。海部、海人部に属する人々を白水郎(あま)とも別称する。海に潜る人々のことであるが、中国揚子江流域の白水にルーツを持つ。

 万葉集に豊後海部郡で詠まれたその白水郎の歌がある。「紅に 染てし衣 雨ふりて にほいはすとも 移ろはめやも(紅に染めた衣は雨に濡れて鮮やかに見えることはあっても決して色褪せることはないよ)」。紅花で染めた手作りの衣を結婚の約束の品として贈ってくれた恋人に、決して変心することはないよ、とその愛に応える男の歌である。遠く旅先から帰りを待つ想い人の事を歌ったのかもしれない。

 万葉以前、この地のそういう心優しい男達も海人族の一員として神武東征に加わったのかもしれない。海人族が移動する距離は実に長く行き先は遠い。神武に伴って行った人々、神功皇后三韓征伐に玄界灘を渡っていった人々、大友氏の海外貿易や朝鮮の役に駆り出された人々、国作りを下支えしたそういう人々の物語は残念ながら歴史記述は伝えない。

 現在の豊後国においては、平成の大合併を期にそういう海人族の心を宿した「海部郡」の名は捨てられてしまった。その郡名は太古からの海人族の物語を伝える象徴であったような気がしてならない。歴史上に不確かな神武東征よりも、それ以前からこの国の民俗を紡いで来た確かな人々がいた事を忘れてはならない。

 

 参考:「海人族の古代史」(前田速夫)

「海人族と神武東征物語」(黛弘道)

神武天皇はたしかに存在した」(産経新聞