忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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佐伯の殿様、本で持つ(佐伯文庫の功罪)

 偶には中世を離れて江戸期を覗く。寛政期、我が豊後佐伯藩にとんでもない藩主が出た。

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 高々二万石の片田舎の外様大名である。その二万石が結果的ではあるが、加賀百万石の向こうを張った。喧嘩ではない。書物の蒐集である。蔵書数の異常な多さである。江戸期文庫の双璧になった(尊経閣蔵書、佐伯文庫)。一代で内外から漢籍を主体に八万巻・四万冊余の蔵書を江戸藩邸、国元の豊後佐伯で揃えた。八代・毛利高標(たかすえ、1755-1801)である。多くが良本、稀覯本である。学術的価値も高い。「佐伯文庫」である。施政においても英邁な君主であったことは幸いであった。時は田沼意次(1719-1788)から松平定信(1759-1829)の時代である。

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 わかり易く言えば、博覧強記の"本オタク"であろう。その学識の深さは、近江仁正寺藩1.7万石・七代市橋長昭(1773-1814)、因幡若桜藩2万石・五代池田定常(1767-1833)と寛政期の”好学の三大名”、”柳の間の三学者”と称された。長昭は日新館を創設した。名君である。定常は谷文晁や塙保己一とも交流した文化人である。高標は世に圧倒的な良書を残し四教堂を創設した。

 

 平戸藩主・九代松浦静山(1760-1841)も江戸在勤の度に高標の蔵書目録を覗きに来た。転写した目録は平戸藩の楽歳堂に保管し広く後学に知らしめた。静山は「甲子夜話」、「剣談」で著名な文化人でもある。”勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし”、の張本人である。

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 高標が異常な読書家であった事は間違い無い。生母は譜代上野壬生藩二代・鳥居忠瞭(1681-1735)の娘である。壬生藩の初代忠英(1665-1716)は英邁であったと聞く。学習館を創設した。その血筋を引いたと言っている訳ではない。毛利家も代々多くの名君を輩出している。高標は江戸で生まれ六歳で藩主になった。十九歳で初めてお国入りしたが既に本狂いは始まっていたようだ。藩主になって嬉々として本の蒐集に走ったように思われるのである。蒐集結果だけ見れば、これはもうある種の偏執者である。一代で八万巻・四万冊である。

 

 何処で手に入れるのか。京都、大阪である。京都に書物吟味・調達役を常駐させた。京都の書物商には“京唐本世話人”と別称(蔑称ではない)された。大阪留守居役とも連携した。国元には”御写物御用(写本)“と”御書物抜書(要約)”を置いた。ここから本を買い漁るのである。高標は江戸藩邸あるいは国元から直接指揮もする。「書物蔵がいるな。」、居城の三の丸書院の庭に三棟の書物蔵を造った。天明元年のことである。「佐伯文庫」の開設である。はてさてそれでも欲は広がるばかり、御書物御用専門の”書物奉行”まで置いた。この職は紅葉山文庫を管理すべく江戸幕府が置いた職名である。一介の小大名に果たしてそういう職種が必要なのかと思うが、肯んじず、である。

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 書庫が建てば建ったで放っておけない。なにしろ汗牛充棟である。江戸藩邸からも指示を出す。家臣に対してであるにも関わらず、言葉は丁重である。「虫がつかぬよう樟脳を多く入れて下さいね。隔日によくよく改めてみて下さいよ。」、もう我が子を溺愛するが如しである。

 

 藩にとっては幸か不幸か、天明5年、遂に長崎での書物調達が実現した。幕府・長崎奉行を巻き込んでの大掛かりなものである。唐船から持ち込まれる、漢書、洋書を長崎会所から調達するのである。そんな権利が地方小大名に易々と与えられるはずがないように思うのだが、さて如何なる手段を講じたか定かではない。人や物資の搬送は通常であれば廻船である。「いやいや、貴重な本は陸送にせよ。」、なのである。入れ込み方が尋常ではない。

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 この時代の藩士は暇であったろうに、特に江戸勤めであれば華やかな都会生活を謳歌したかったであろう。迷惑な話である。この部署だけは、江戸も国元も大忙しなのが、江戸、京都、大阪、長崎、佐伯と、その旅行記録から察っせられるのである。まあ微笑ましいといえば微笑ましい。泰平の世である。

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 さて、その功罪である。学問所・四教堂を設置し教育に力を入れた。咸宜園を創設し有為の人材を世に送り出したあの広瀬淡窓も14歳の時に指導を受けに四教堂まで来た。その「懐旧桜筆記」に述懐する。”士民富饒なり、候・博覧強記、蔵書・海内無双なり”。新田開発(女島埋立て)を進めた。紙漉き技術を妻の実家である伊予大洲藩より導入し、後の"佐伯半紙"の基礎を作った。文化7年、伊能忠敬が佐伯地方の実測に来訪時には藩ではこの半紙を贈呈している。因みに妻の父君は六代・加藤泰衑(やすみち)(1728-1784)、五代が着手していた明倫堂を開校せしめた。書物はどうであれ施政は功ありであろう。

 

 さて、その購入資金である。元々豊かな藩ではあった。なにしろ世に“佐伯の殿様浦で持つ”、と言わしめてきた。”士民富饒なり”、であった。ある程度のところまではいけたのかもしれないが、最後は流石に財政を圧迫したようである。確かに裕福な藩ではあった。廃藩置県時には蔵の秘密の穴蔵に2万5千両程が隠されていたとのことである。藩士達はこれを元手に事業を起こすことが出来たのであるから、まあ、よしとしよう。私学鶴谷学館設立もこれによった。

 

 佐伯文庫のその後である。10代高翰(たかなか)の時に幕府に半分の二万冊を献上した。幕府にも垂涎の的だったのであろう。田舎大名に持たせておく手は無い、と言う事であったかは知らぬ。だが、これが幸いした。書籍が後世まで残ったのである。昌平黌、紅葉山文庫、江戸医学館、に保管された。江戸期の後世の学者も驚いた。閲覧する有用本の多くに佐伯文庫の朱印がある。なんとも呆れた殿様だ、これ程の良書をよくもまあ、古今未曾有の盛事、という訳である。今は、国立公文書館宮内庁書陵部に1万7千冊が継承され残っている。残念ながら手元に残した残りの二万冊の多くは散逸してしまった。戦時に多くが焼失、地元にも僅か四千冊が残るのみである。

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昌平黌と紅葉山文庫


 この蔵書の素晴らしさの傍証は、中国に里帰りした本が四百冊余ある事である。北京大学図書館に保管されている。中国には最早残っていない貴重な本の数々なのである。米国の国会図書館にも50冊弱ある。それ程の稀覯本を一代で集めた。筆者のような者さえもよく知る著名本の数々が蔵書目録にある。

 

 本人は永遠に生きるつもりであったのであろうか、どれだけの読書時間が残されているのか想像もしなかったであろう。それだけ本を愛したということである。市井に「佐伯文庫」と朱印された古書が出回っていたとしたら、それは当時の幕吏による好事家への横流しによるものである。献上時に幕府が全てに「佐伯文庫」と朱印した。お墨付きである。国庫にしかないはずなのである。

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佐伯文庫、朱印


 さて高標は静山のように本を出したか。そこである。何の為に本を好み、結果、世に何を示す事が出来たか。残念ながらそこが無い。だからある種の偏執者と言われても仕方ない(誰もそうは言っていないが)。ただ佐伯地方からは多くの人材が育った。それで十分である。ある種の英断である。トップはそうであって欲しい。ソフトはハードを凌ぐことは間違いない世の真理である。よくやった。

 

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佐伯市歴史資料館

 はて筆者は、せめてそのおこぼれでも頂戴出来たのであろうか。このソフト文化を継承してきたのであろうか。甚だ赤面の限りである。

 

<参照資料>

佐伯文庫形成過程における一考察(岩崎義則)

   佐伯志、他