忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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恨めしや、太閤秀吉 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(29)

 かつて豊後は西国一の国力豊かで先進文化が栄えた地であった(主として国東地方、豊後大野地方)。鎌倉から入国して来た守護大友氏もこれを基礎に一大覇権国家を営んだ。島津氏の薩摩を除けば概ね九州を制したのである。古くより開発された大野川流域一体の農業生産力と豪族大神一族の武力に負うところが大きい。

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 その後、不幸にも島津氏に領国を蹂躙され、大友氏が秀吉に改易され、豊後が秀吉子飼いの家臣達への褒賞地として細分化されるに到り、豊後は政治的、経済的に弱体化した地域のまま現代に至る。長い太平の江戸期をそのままの形で過ごすことになろうとは、当時の大名達でさえ想像出来なかったはずである。徳川後の次なる覇権争いの出現が当たり前で、失地回復機会はあると考える世界であったのだから。それが起こらず、仮の世界と思っていた筈が将来まで固定されてしまった。

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 加え大国になったかつての大友氏の属領・隣国肥後熊本藩には要路である肥後街道(豊後横断ルート)、良港のある鶴崎半島を同藩を支える大物流機能として抑えられてしまうのである(直入、大分、海部に2万石)。社会経済の再生が必要な豊後の国力は更に回復の余地を削がれ、小国分立が故にその後も大規模な資本が投下される機会も失し、豊後民衆には汲々とした忍従の400年が待ち受けていたのである。あくまで筆者の個人的見解である。

 下表(1)は日本の耕地面積と人口の推移を見たものであるが、いずれも政治も安定し新田開発が奨励された江戸期にようやく増勢に転じている。それまでは生産力が伸びる(国力が増える)ような状況ではなかったことが分る。各国(各藩)とも江戸期の政治的安定を背景に国力(生産力)の増強を図るのである。ただ豊後だけは江戸期前には九州では国力が既に最大点に到達していた。それだけ早くより耕地開発が進展していたということである。

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 江戸期に至ってのその後の豊後の状況を九州各国の石高と人口との比較においてみる(下表2、3)。豊後は人口(48万人)が多い割には石高(42万石)が低い(唯一、石高増がない)。逆に行政単位である村数(1,473村)は最も多い。石高を単位当たりでみるなら九州の最貧国(283石/村、0.9石/人)と言わざるを得ない。人口増に対して石高増がない要因については未だ把握出来ていない(新田開発余地がなかったか)。大友覇権時代の勢威(最大の石高を保有)を顧みるにその没落度合が甚だしいのである。

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 稲作生産においては現在においてもこの状況に変わりがない(表3)。特に単位当たり収穫量(403Kg/10a)は九州で最低水準にある。作付面積もかなり低い。古くから開発が進み新田開発の余地が少なかったことや(もともと耕作適地も少ない)、おそらく各小藩にとって大規模開発の資力に乏しかった為と推察する。16世紀末の秀吉による豊後処断の根は深いのである(既に”豊後恨み節”で掲載済み)。

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 国力の活性は都市機能に現れる。室町期には府内(現在の大分市)の人口は数万人(町屋5千軒といわれた)に達し、西国一の活況を呈したといわれる。大友氏のお膝元として対外交易で潤っていた。その他にも野津や蒲江津が大きな人口を抱えていたとの考察もある(野津は大友宗麟の拠点・臼杵支配下にありキリシタン人口も最大の地、蒲江津は海上交通の経由地)。ただ江戸期になると九州各国に大規模な都市が勃興するのに比べ豊後には見るべき都市がない(表4)。細分化された豊後各小藩には大型都市の興りようがないのである。国力活性に繋がらない。これも太閤秀吉の処断に起因する。

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 それでは豊後国内ではどうであったろう。古くより豊後八郡と呼ばれる。それぞれの名前の由来は古く豊後風土記にある。天保郷帳からは各郡の村単位での石高詳細が分る。豊後内での各郡の状況を比較してみる(表5)。古くから開けた国東郡(杵築藩)で石高、大野郡(岡藩、臼杵藩)で村数が最も多い。ただ国東郡の単位収量(石/町)は低い。かつての豊穣の地、大野郡は多くの零細村の集合地域になってしまった。豊後をリードしてきた先進2地域が低迷しているのである。

 一方、特筆すべきは海部郡(臼杵藩、佐伯藩)に浦(漁村)数の記載があることである。しかも佐伯藩だけに限定的である。実際にはこれらの殆どの浦において石高(朱印高、実高ともに)は計上されていない点に注目しておきたい。佐伯藩だけには石高では測れない漁業主体の民衆生活があったということである。”佐伯の殿様、浦で持つ”(既に掲載済み)、と言われた由縁である。浦を石高の対象から除外すれば海部郡の単位石高(石/村)は跳ね上がる。この海部郡については、次回、報告することとしたい。

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 以上、その国力(生産高、生産効率)を数値化して概観してみた。

 

 江戸期の豊後及び現在に至る豊後(大分県)の現状に思いを馳せるに、今もって太閤秀吉の処断が返す返すも残念でならない。秀吉が文禄慶長の役の報償地を他国に求め、豊後を大国として残しておいてくれさえすれば、誰が新たな知行主になろうと、豊後のその後の状況は大きく変わっていたことは間違いない。

 豊後は早くから発展した地域であったが故に九州の中でもその石高は大きかった。秀吉には魅力的であったであろう。このことも災いしたと考えたくなるのである。他国は江戸期に一気にその新田開発を急増させるのである。秀吉に目を付けられるに時既に遅し。

 例えれば先進国と途上国の見本のようなものである。豊後は先進国としての次なる成熟への道を歩む機会を奪われたのである。

 恨めしや太閤秀吉、豊後の民衆にしてみれば、”なにわのことは夢のまた夢”、では済まされないのである。

 

了