忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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家老はつらいよ Y2-06

 いつの世も部下と上司の関係は面倒なものである。武家の世であってもそうは違いがないのではなかろうか。江戸期各藩の経営(責任者)は名目的には藩主という事になろうが実質的には家老が担って来た。それでも明治維新幕藩体制が終了するまで270年間、今で言う創業者一族(藩主)の経営体であった訳である。綻びが生じない方がおかしい。無論、その上位で幕府が目を光らせていた訳で藩主の独断や苛政への抑制装置が無かった訳ではない。改易されないことが経営の至上命題であった。

 一方、参勤交代で藩主は隔年で一年の長期出張、地元不在となる。経営は国家老が一身に担わざるを得ない。これが実質的な経営者である。ただ、藩主同様に世襲職であるところが現在の創業者経営と違う。領民にとっては世襲藩主、世襲家老の組み合わせが最悪でない事を祈るしかない。

 我が佐伯藩の経営者(藩主、家老)を下表に一覧する(増村隆也・佐伯郷土史より)。初代高政は進駐軍みたいなもので戦国の荒ぶる家臣を引き連れて佐伯に乗り込んできた。いずれも合戦に生き残った強者共だったに違いなく、文より武が優っていた時代である。主君(藩主)と重臣(家老)とは概ね一体感(言いたいことは言える関係)が醸成されており、経営体制としては理想的であったろう。佐伯という新天地で新しい事業を起こす夢も大いに抱いていたに違いない。

 

 さてその佐伯藩には明治維新まで52名の家老が出た。その内、19名が罷免されている。実に3割に相当する。経営体制としては問題である。本来なら藩主の任命責任を問われるところであるが世襲だからそうはならない。この数値が一般的なのか異常なのか判断がつきかねるがあまり褒められたことではないだろう。

 佐伯藩の特徴として高政以降、藩主の多くが若死している。家老は頑張らねばと思う反面、増長する気持ち、あるいは専横の伏流水が流れ始めていただろう点は否定出来ない。高政股肱の重臣の子孫は明治維新までには殆ど残っていないのである。因みに佐伯藩一等の名君と評価の高い六代高慶が最も多い6名の家老を罷免している。100年間、放置され荒れ放題だった佐伯城を天守を除き再建したのもこの人であり、現在に残る城下の整備も行った。産業政策も後代に花開いている。ただ厳しい人であったようで綱紀粛正は生ぬるいものではなかった。結局、こういう果断で有能なリーダーが出現しないと経営改善は困難であるという点では今に通じる。佐伯藩にとっては早い時期にこの藩主の下で体制変革を行えた点は幸いであったといっていいだろう。

 一方、坂本家からお借りした”御家中血縁図写し“からも様々な事が分かる。高政股肱の臣(家老)はいずれも暫くは毛利姓(高政没後、本姓に戻す)を名乗り1,000石の禄をえていた。藩経営以前の高政への貢献度合いが大きかったということでもある。この禄は各子孫に世襲されていく。その後も高政は有能な家臣を多く任用し戦時に備えた。平時の藩主では経営環境も違ってくるが、それでも後継藩主はそれぞれ新たに家臣を任用している。その人数を見てみると三代高尚が最も多い11名を1,330石相当で任用している。初代の高政を除くと平均任用高は100石である。佐伯藩の給人(上級武士)基準は50石だから厚遇である。ただ、その起用効果については分からない。ただ、人材刷新、人材登用の観点からは必要なことである。

 さてこれら経営者や中間管理者の報酬はそれに見合うものであったのだろうか。下表に概括すると佐伯藩の家老職の最大禄高は1千石、精勤しないとバチが当たる水準であろう。無論、中にはこれに見合う有能な家老や重臣も出た。ただ問題さえ起こさなければ世襲で身分は保証され、どちらかといえば事なかれ主義であったろうことは想像出来る。また、独善的、驕慢の側面も出た。家老罷免の高さがそれを示している。

 次に職制である。59職ある。少々多いかもしれない。山奉行、浦奉行、書物奉行など佐伯藩特有の職制と思われるものもある。どんなに財政が苦しくとも家中の首を切る訳にはいかない。世襲が保証されている、というよりは藩の石高で保有すべき人数が幕府により定められている。建前としては凖軍事体制にある。だから経営の苦労はよくわかる。

 その軍事出動が佐伯藩に一度あった。加藤清正の不首尾に伴う熊本藩取り潰しの始末として熊本城開け渡しへの出動である。動員兵力は1,500人程度であった。石高は2万石で変わらないが百年も経つと人口は35,000人から52,000人へと1.5倍に増えたが家中(動員兵力)は1,700人規模と殆ど変わらない。実高が増えたにしても藩の経営は大変であったろう。加え、江戸期の後半は全国的に天災が実に多く飢饉が頻発し経営環境は最悪でもあった。ともかくも明治維新までには財政的には破綻せず、むしろ剰余金を残し無事経営を終えた。

 さて藩主、家老共々の佐伯藩270年の経営はどう評価出来るのであろう。その末裔が経営する現在の佐伯市政を職員数でみてみると下表の通りである。末裔である我々の現在ある姿から判断するしかない。

 270年間、営々と経営して来た先祖達の労苦を想い、これからの佐伯市の未来へと創造的な運営を行うことがその遺産を有効たらしめることであろう。この地が昔から僻地であることは否定し難いが、それでもこれをハンディと考えず、この地の与えられた条件の中で一心に生きてきた祖先を思い、その歴史理解を深めることが何より大切な責務であろうと、帰省の度に城山を見上げながら考えてしまうのである。

了