忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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マックス・ウェバーも瞠目 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(31)

 古来、豊後海部郡に棲んで来た人々は海や陸を自由に行き来した人々であったが、江戸期には厳然として領民である事を強いられ、ほぼ他所へ移動する事なくこの地で自らの手で暮らしを立てざるを得なくなった。在方(農村)、浦方(漁村)、城下(町人)、それぞれに如何に生活手段を確保したのであろうか。本来、中世の暮らしを研究したいのであるが、まずは江戸期の暮らしを大日本物産絵図(1877、歌川広重)を参照しつつ俯瞰してみたい。意図はこの地が諸国と同じ物産を産出し得たか、それで食えたか否かを見ることにある。

 海部郡の特長は岬と入江が複雑に入り組む長い海岸線を持っている事、一方、平地が少なく山岳地帯の占める割合が豊後でも突出して高い事、その山岳地帯には取り立てて見るべき鉱物資源も無い事、物産の流通と表裏一体である他国と繋がる主要な街道(豊後街道・肥後街道、日向街道)からは遠く逸れている上に、領内でさえ在方と浦方を繋ぐ要路がなく海路が主要な交通手段であった事、その海路も潮流が速く波が高く難所が多い難路であった事、何という逆境であろう。地勢としては地質学的にまさに付加体の成せるところである。

 山林資源、海洋資源には恵まれていたと言えなくはない。古くより海人族の土地でもある。そこから取れる物産が自給自足経済の範囲のものであったか、あるいは商品経済に参加し得たか否かである。仮に後者であったとしても近隣に大市場はない、よって地の不利を負ってでも他国の物産との競争に勝ち得る製品である事が必須条件になる。物産絵図は日本の名産地の物産を示しており、少なくともこれらと競争出来るものでなければならない。結論として、干鰯、半紙、白炭は上方(大阪)の卸市場で人気商品になった。まさに山と海の産物である。

 下図は大まかな領内における産地分類である。

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 山村の物産から見る。鉱物資源としては唯一石灰岩が豊富にあったがその他の鉱物資源に乏しい。石灰は漆喰や三和土などの建材需要は領内にあっただろう。鳥獣は多く狩猟は成立したであろうが、自給食材であったろう。馬は領内に放牧地があったものの野生馬は無い。材木は豊富で領内の造船や建築需要を満たしたに違いないが、藩の収入源になったかは定かでは無い。蝋は商品作物には至らなかったと思われる。製紙用に楮が栽培され半紙は城下で製造され上方(大阪)に販売ルートを持った。技術は宇和島藩から導入し競争製品に成長した。

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 ブランド品として評判をとった諸国のいくつかの物産を絵図でみてみよう。これらと競争して初めて特産品となる訳である。

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 次に農村の物産はどうであろう。特段、全国展開可能なものはなかったようである。何しろ耕作地が少ない。ほぼ自給自足用で余剰生産に至るものはなかったろう。その意味で農村は貧しかった。

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 ここでも諸国の先行ブランド品を見てみよう。当時にあってもやはり固有ブランドを持つことの意味は大きい。現在に至るまで連綿として地域経済を担っているのである。

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 城下では農山村で取れる物産の加工と販売を担ったと思われる。また目前に広がる三角州は製塩を可能とした。加え佐伯湾は海の物流拠点でもあった。領内の木材を利用した造船も盛んであった。

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 諸国の先行ブランドをみる。

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 最後に漁村である。海人族の本家本元である。海産物が豊富にあった。定置魚に加え回遊魚にも恵まれた。ただ大消費地からは遠い為、加工する必要があった。鰹節や干鰯、それに俵物を豊富に産した。藩に取っての有力な収入資源になったはずである。回遊魚をもたらす海流の側という地理的条件に恵まれ、また付加体による複雑な海岸線は漁礁そのものである。

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 こちらは諸国のブランドに引けを取るものではなく、多くが競合出来たと思われるが、少なくとも干鰯についてはブランド化に成功した。現在もこの地は新たなブランドを産出し続けている。

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 豊後海部郡はあらゆる物産が産出可能な気候と土地に恵まれた。ただ耕作地の制約から農産物は大量生産出来る環境にはなかった。現時点で農産物も海産物もその生産量や生産額を数値化するのは困難であり経済効果を数値化出来ないが、これまでに報告済みの通り、石高に対する人口比で推察するしか無い。多くの人口を養った。

 今に残る農山村と漁村の生活振りや気風に見る事も可能かもしれない。農山村は貧しく漁村には裕福な暮らしがあった事が伝えられている。気風としても海辺の人々が開放的で進取の気質を持つ事を農山村の人々は認めざるを得ない。一つだけ言わせてもらえるとすれば農山村は多くの勤勉な人々を産した。

 総括する。マックス・ウェバー(独、政治・経済・社会学者)では無いが、”プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神”に通じる何かをこの地が涵養し継承して来た事は間違いない。そして、そこに今も変わらぬ暮らしがあり、良質な人材を産出(輩出)し続けていると筆者は信じている。

 

了