忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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佐伯国へ陸行水行すること遥かなり(文人墨客来たれ:続編) 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(36)

 中世あるいは江戸期における移動手段は、”陸行”であれば徒歩、”水行”であれば風待ちの帆船である。豊後は山の多い国であるが、特に佐伯地方は殆ど山岳地帯と言っていい。何処に行くにも幾つかの峠越えは避け難い。一方、古来、陸行より水行の方が便利この上ない地でもある。この豊後を文人達が縦横に歩き回った。まずは陸行を見る。

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 下図は広瀬淡窓、国木田独歩種田山頭火の佐伯地方への陸行の記録であるが、実はもう一人、この図には載せていない偉人が豊後を陸行している。伊能忠敬である。この人は豊後に限らず日本全国を陸行した。日本の海岸線そのものが彼の歩行地であるが、測量が目的とはいえ道なき道であったろう。その健脚振りは前者の文人達の比ではない。

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 広瀬淡窓は14歳の時、日田から佐伯まで恩師を追って遊学した。佐伯には名にし負う佐伯文庫に藩校・四教堂がある。本格的な他国への遊学の為の父親による予備的経験を積ませることが目的であったが、彼にとっては後年まで心に残る旅であり遊学の地となった。独歩は正月休みを終え、故郷の山口から熊本、阿蘇を経由し、竹田から佐伯までは徒歩で帰任した(着任時は水行であった)。山頭火は熊本を本拠に九州を隈なく行乞(ぎょうこつ)(托鉢)したが、豊後でも内陸と海岸縁を歩き回り佐伯にも来た。三人とも季節は違うが、竹田、佐伯間は同じ道を歩いている。

 淡窓はいい季節に阿蘇山、久住連山、祖母山と、肥後、豊後の名峰を遠望しつつも楽しむ余裕がない。郷里を離れて初めての旅であり、ただただ心細さが募る中、ひたすら佐伯まで歩いた。佐伯地方に入る最後の峠越え(中ノ谷峠)では山中泊、狼の咆哮に慄(おのの)いている。この地方にはその時分までは未だ狼が生息していた。

 山頭火は佐伯地方の奥地(宇目町重岡)から竹田まで下り、そこからまた久住、由布まで登っていく。更に奥耶馬溪まで山行を続け中津まで降りていく。豊後縦断である(前年にも筑前英彦山から豊後の海岸縁を佐伯まで行乞している)。こちらも絶景あり温泉ありの気儘旅だが、生きて行く為に背負ったものが淡窓ほどには軽くはない。季節は晩秋である。人生のやるせなさ、哀しさ、儚さを払拭出来ない旅である。  

 淡窓と山頭火の一日当たりの歩行距離にその思いの違いが出ている。淡窓は一日当たり30Kmを歩くが山頭火は17Kmと遅い。托鉢行であれば急ぐ必要もない。ただ山頭火は44Kmを歩いた日もある。健脚振りはもとより淡窓の比では無い。この時代まで人々は少なくとも連日30kmは平気で歩けたという証明でもある。独歩はこの二人には及ばないが竹田から佐伯まで一泊して11里(44Km:現在の実測値60Km)を歩いた。佐伯地方を頻繁に歩き回ったようにこの人も健脚である。いずれも青白き文人ではなかった(淡窓は病弱ではあったが)。

 この間に山頭火が作った俳句に当時の豊後の人々の生活を窺う事が出来て興味深い。

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 淡窓は20年後に佐伯への旅と佐伯での日々を偲び漢詩10篇に残した。佐伯城下の自然美と人々の豊かな暮らしを詠んでいる。江戸期の佐伯地方の風光の素晴らしさや文人達の趣味、人々の豊かな生活が伝わってきてこちらも興味深い(筆者訳はいい加減であるからそれが伝わらない)。

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 さて水行はどうであろう。文人達の海上日記を未だ探せていない。ただ、文人では無いがかつて豊後を蹂躙した島津義弘が佐伯沿岸を経由して上洛している記録が残っている。佐伯から大阪までの旅程を推測出来る。ざっくり佐伯から義弘のルートを辿ると約450~500km、10日の海路となる。船旅は時化や風待ちを考慮する必要があり、当然、この日数も見込むべきである。この旅だと船足は一日当たり約50kmとなり徒歩30Kmにはやや勝るが、速いという訳ではない(勿論、現在では両者の比較は無意味である)。物流面での水行のメリットは陸行の比では無い。

 ついでであるが、ウィリアム・アダムス(三浦按針)の乗ったリーフデ号は、島津義弘が豊後を水行した12年後に、義弘の船が風待ちしていた佐伯湾頭の穂戸崎とその手前に浮かぶ大入島との入江付近に漂着している(歴史上は臼杵湾に漂着となっているが、これは間違いである)。同僚の多くは飢餓や病気がもとで亡くなった。徳川家康は三浦按針を外交顧問として重用するが、佐伯の人々が救助したからこそ江戸期の歴史にその名をとどめ得たのである。

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 最後に伊能忠敬である。その地図を見れば彼も豊後の内陸を歩き回った事が分かる(久住・直入、豊後大野、日田地方)。もっともこちらの目的は幕府の為の諜報活動のようなもので、文人旅のような情緒はこの地には落ちていない。その宿泊地を辿る事で陸行ルートがよく分かる。豊後内の陸行は山頭火を凌駕する距離であったろう。

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 その地図からは佐伯城下とその近郊の現在までの地勢の変化もありありと見て取れる。佐伯城下が番匠川の広大なデルタに如何に遠慮がちに佇んでいたかが分る(現在においてはその面影は消失している)。

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 それにしても現在でも行き来が困難な九十九浦と言われた佐伯の海岸線をよく踏破したものである。佐伯地方での、日程、宿泊地・宿泊所の詳細が残っている。貴重な情報である。

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 最後に伊能忠敬の地図に文人達の陸行ルートを重ねてみる。正確無比に彼らを旅させてくれるなんと最上の地図であることよ(実際は、村落・宿場が細かく記載さている)。

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 その正確な地図を国外に持ち出そうとしてシーボルトは退去処分となった(シーボルト事件)。幕末期、当時世界最高の地図制作技術を持つ英国海軍は日本の沿岸測量をやろうとしたが、この地図に脱帽し引き下がった。近年に至っても我が国の陸軍参謀本部はこの地図に頼ったのが実情であるから、まずは伊能忠敬の健脚には感謝しなければならない。もっとも当時より貴族、大名を除けば、日本人にとって交通手段は歩行が日常であったことを思えば、驚くことでもないのかもしれない。

 そういえば大分県人の被災地支援の”スーパーボランティア尾畑春夫さん”も、確か東京から大分の実家まで1,000Kmの距離を歩いて帰ったのではなかったか。目的は違っても日本人にとっては信念さえあれば陸行の歩行限界は無いのである。もっとも現代人にとっては当時に比べて陸行しようにも道そのものが立派でも危険極まりない。それにも増して長閑な旅はすっかり廃れ、文人達は健脚を失ってしまった。

 

了