忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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柴田紹安の末裔 Y3-04

 豊後・大友氏の家臣、「柴田紹安」は野津郷(現臼杵市)を領した「豊後国橘姓柴田氏」の棟梁で豊薩戦時(1586~1587年)には大友氏の出城である「宇目郷・朝日岳城」の城主を務めた。ここで島津に寝返ったことが結局は野津郷・柴田一族断絶の要因となった。大友宗麟重臣で「豊後のヘラクレス」といわれた「勇将・柴田礼能」はその弟である。紹安は寝返ったものの島津に疑われ、結局、「天面山城」に攻め殺される。その家族は、「居城・星河城」に島津の人質として留め置かれていたが、「佐伯惟定」の手勢がこれを落とし、佐伯領内の「西定寺」(その所在は不明)で一家全員が殺害されたと伝わる。弟の礼能父子も丹生島城(臼杵城)戦で討死、以来、野津郷・柴田一族のその後は歴史の闇に消えた訳である。

 ところが、紹安が討たれた450年後の今、柴田姓ルーツを探っていると、「柴田紹安を家祖」とする末裔達に佐伯地方で遭遇したのである。一方は宇目・長昌寺(西南戦争時の官軍の指揮所)の境内で偶然、声掛けした御仁であった。朝日岳城跡のそばに住む。紹安の末裔だというが確証は伝承しかない。

 もう一方は大入島に落住した柴田三兄弟(大入島・片神浦、佐伯・坂の浦、旧中野村・三股に分住)の末裔である。こちらの三兄弟は柴田勝家・勝豊の末裔との伝承もあるが(下図に検証結果、その可能性はある)、新たに提供して頂いた家系図には「朝日岳城主を家祖」とすると記載されている。一般的に家系図というものは全面的に信用する訳にはいかないが否定する根拠もない。

   

 その本家筋(大入島片神浦)は三代目の時に佐伯藩により尺間神社(尺間山)とその末社愛宕神社(大坂本)の神職宮司)を申し付けられている。尺間登山道には今も見事な「柴田大隅壽碑(石造)」が建っている。麓の大坂本には「柴田屋敷跡」と呼ばれる土地も残っている。

大坂本(尺間山遠望)と愛宕神社

 更に調べていくと上浦湾を囲む位置にある各神社(狩生王子神社、宮野内・彦三柱神社、大入島石間浦・彦神社)もその棟札から柴田一族が神職を務めていたことが分かった。こちらは分家筋であろう。

 

 また八幡地区にある願成寺、万休院は高僧、「仁叟」の開基であるが、彼も柴田一族であることが万休院の宝篋印塔に彫られた碑文で判明している。柴田氏は江戸期に佐伯地方の神職を務めた家としての十分な裏付けを得たのである。ただ、柴田勝家・勝豊を源流とするか、柴田紹安を源流とするか、結論を出すこともない。歴史ロマンとしていずれも残しておくことでよいのではなかろうか。

 特定神社の奉祀を世襲してきた家のことを「社家」と呼ぶ。神職を出す家のことである。日本の由緒ある神社の「社家」には華族に列するほどの高位の身分を持つものもあった。古来、氏族の祖先神(氏神)を祀る役目を負ってきた訳であるから元々貴族並みの由緒をもつ。出雲大社・千家氏、諏訪大社諏訪氏住吉大社・津守氏などがそれである。柴田神職家は紹安や勝豊を祖とする限り「社家」と呼ぶには歴史が浅い。

 神社の管理監督の歴史は古い。古くは朝廷の祭祀を司り、諸国の「官社」を統括する「神祇官」が置かれ、傘下には「祝部」(神職)や「神戸」(神社に付属した民戸)などが属していた。社格もあった。近年では一宮、二宮などが身近な社格であろう。佐伯藩の一宮は「御所明神(臼坪)」で尺間神社は諸社(村社)である。

 江戸時代になると「禁中並公家諸法度(1615年)」で、それまで幕府の推挙によっていた「武家官位」は公家官位とは切り離されることになる。つまり幕府が取り仕切ることが出来るようになるのであるが、同様に神社、神職についても「諸社禰宜神主法度(1665年)」により「京都吉田家」がその統制を幕府により許可される。各神社はその位階や神号、神職は免許状を吉田家より授与されるのである。「宗源宣旨」という。それなりの由緒のある神社の神職になろうとすれば吉田家の免許状を得ないことには神職を務めることが叶わなくなった。

 佐伯地方の柴田神職家も江戸期の各代は吉田家から「神官許状」を得ている。現代においては民間資格ではあるが神職階位は「神社本庁」が定めており、神職職掌宮司禰宜等)もこの階位によって決まってくる。

 佐伯地方には佐伯藩が一目を置いた五所明神(橋佐古氏)、若宮八幡、大宮八幡(神志名氏)という別格の神社があるが、大坂本の愛宕神社はこれに相当する特別の待遇を得ていた由緒ある神社である。かの国木田独歩は二回目の尺間山登山は十二代高謙公が寄進した愛宕神社から尺間神社に至る道程石柱(42本)を辿って登った。

  

 今も柴田紹安の末裔が生きている。佐伯氏は「紹安の家族は西定寺で殺害した」と主家・大友氏へ虚偽の報告をしたとしてもおかしくはない。既に大友氏の勢威も失墜していたのである。しかもその西定寺がどこにあったのかさえ伝わっていない。断絶させずに領内に住まわせた可能性もあろう。

 柴田神職家の拠点となった大坂本に寺の跡が残っている。もしや西定寺ではなかろうかと調べてみると「西光寺跡」と一字違いであった。それでも紹安妻子が捕らえられた星河城はこの西光寺の目と鼻の先にある。寺跡には古い墓標が残っているがその碑文は摩滅して読むことが出来ない。そこに歴史事実が潜んでいるような気もする。

 佐伯氏を継いだ毛利氏が紹安の子孫を尺間神社、愛宕神社神職宮司)に登用した意図は何だったのであろう。そもそも尺間神社は1573年に佐伯惟教の旧臣・高司治郎右衛門(田賀志星雲)が尺間山中に祭祀されていた愛宕神を奉祀したことに始まる。そのまま高司家が宮司を継いでいてもおかしくないのである。そこに新しい施政者・毛利氏の佐伯氏への微妙な心理を見る思いがする。近年になって柴田神職家七代(1892年没)の第六子が大坂本の高司家に嫁いでいるのも因縁である。

 地方にも豊かな歴史が埋もれている。佐伯地方には魅力に富む歴史物語がまだまだ残されている。以上はそのほんの一端である。