忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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源叔父(国木田独歩と豊後の国佐伯) Y2-17

 有島武郎に「或る女」という小説がある。独歩の妻だった佐々城信子がモデルである。今で言う飛んでる女である。”ある日、独歩が家に帰ってくると信子がいない”。信子に捨てられて「余は一種異様の感あり」。暫く未練を引きずっている。「源叔父」はそういう騒動のあった翌年発表された。

 「源叔父」」は、佐伯地方の葛港と大入島を渡す船頭と城下を徘徊する白痴の哀れな少年「紀州乞食」との物語である。二人には実在のモデルがいる。

 この時分の葛港は、「佐伯町にふさわしかるべし。見給ふ如く家といふ家幾ばくありや、人数は二十にも足らざるべく、淋しさは何時も今宵の如し」、と未だ寒村に過ぎない。独歩はこの港でよく泳いだ。葛港には独歩が投宿し、あるいは下宿した旅人宿(鎌田、富永、月本の各宿)があった。

 

 葛港の山際に妙見社がある。モデルとなった船頭はその上り口にあった”松の木の下の茅屋”に住んでいた。独歩の下宿先、鎌田旅人宿の並びでもある。一方、紀州乞食は母親に連れられて日向方面から漂白して来たが母親は少年を城下に置いて去った。やがて少年は自らを健常から白痴に変えて生きる術を身に付けていく。世間は「少年を人情の世界の外に葬り」、少年は「いつしか無人の島にその淋しき巣を移し此処にその心を葬った」のである。

 独歩も源叔父も城下の船頭町でこの白痴の少年乞食に出会う。独歩兄弟は少年に柿をやり源叔父は握り飯をやる。当時、船頭町は海運により栄え、城下で殷賑を極める商人町として、「山村水郭の民、河より海より小舟泛べて城下に用を便ずるが佐伯近在の習慣なれば番匠川の河岸には何時も渡船集ひて乗るもの下るもの、浦人は歌ひ山人はののしり、最と賑々し」いところであった。独歩はこの町の渡場から郊外各地に渡りそこに逍遥した。その都度、様々な船頭や舟客を観察しこれら「忘れ得ぬ人々」の人生を想った。

 

 源叔父と紀州乞食が演じる佐伯の舞台背景が独歩のこれまでの小説と違い実に暗い。南国には稀な雪と霙の曇天の日々である。「欺かざるの記」に描かれているように、本来、「源叔父」の生活空間は、実に美しい景色なのである。

 「磯にさざめく小波の、月に照り栄ゆる亦た美し。乗り捨てし小舟の舷辺に月の光の落ちたるあり。島々の影黒く海面に映じて其の暗き処、波、光にくだけて錦の漂ふに似たり」。

 「ふと大入島の方を顧みたり。島と陸とによりてかこまれたる海面、湖水の如し。湖面寂々たり。島端を晩色のうちにかくす。ただ見る、大入島の横に当たりて遠く、江峰の一塊、突として立つを見る。口言ふ可からず、筆記す可からず。これ壮麗にして幽冥なる自然の、人しれず其の秘密の美をもらす也。吾之を睇視して眼に一滴の涙をもって立ちぬ」。

 源叔父の美しい妻は幼い一人息子を残し二度目の産重くして死んでしまう。源叔父は残された息子を片時も離さず渡舟に乗せて業に励む。だがその息子も溺死してしまう。探しても見つからなかった遺骸は源叔父の舟の下に沈んでいた。源叔父はその歌が故に多くの客がついた得意の船頭歌を最早決して歌わなくなる。

 やがて源叔父は「紀州乞食」を引き取り共に暮らし愛を注ぐ。もう一人ではない。止めていた歌も客に請われると歌うようになる。源叔父は客が話題にした芝居を我が子に見せてやりたいと漏らす。「我が子とは誰ぞ」と客が問うと「我が子とは紀州の事なり」。「源叔父は暫時こぐ手を止めて彦岳の方を見やり、顔赤らめて言い放ちぬ。声高らかに歌ひいでぬ。海も山も絶えて久しくこの声聞かざりき。山彦は微かに応えせり。翁は久しくこの応えを聞かざりき」。

 「醍醐(代後)の入江の口を出る時彦岳嵐身に滲み、顧みれば大白の光漣に砕け、此方には大入島の火影早きらめきそめぬ。静に櫓こぐ翁の影黒く水に映れり。舳軽く浮かべば舟底叩く、水音、あはれ何をか囁く」。今、源叔父には家に待っている人がいる。

 “ある日、源叔父が家に帰ってくると少年がいない”。探し出して連れ戻し、愛を注ぐも又いなくなる。やがて源叔父は”茅屋の側の松の木”に首をくくって死ぬ。

 少年乞食に出会った人の言う、「源叔父は縊れて死ねりと告げしに、彼はただその人の顔を打ちまもりしのみ」。少年は心を葬った自分の巣に戻っただけなのである。源叔父の愛とは何だったのであろう。

 何だか独歩は自分を捨てた妻、佐々城信子への哀惜を「源叔父」に肩代わりさせているようではないか。佐伯の光景も暗くならざるを得ない訳である。因みに信子がモデルの「或る女」の主人公は結局、錯乱状態に落ち入る。それを書いた有島武郎は美しい人妻と恋仲に落ち心中して果てる。何とも駆り出された「源叔父」と「紀州乞食」には迷惑な話である。

 実在の「紀州乞食」は船頭町に架かる池船橋の下に茣蓙にくるまっていた所を何者かに火をかけられ、数日後、本町の御手洗病院で息を引き取る。その墓は篤志家によって養賢寺裏の墓地に葬られた。

 「行路病者俗称紀州之墓(左面に自称野嶋松之介)」と墓標が立つ。

 

<源叔父のモデルの家族について(by 松本義一)>

船頭:「高原嘉治郎」西上浦小福良網代出身(明治29年没)、

鎌田旅人宿(独歩下宿先)の並び(市谷地区・妙見社の登り口)に移住して渡船業

船頭の妻:「コト」上堅田下久部出身(明治23年没)

長男:「亀太郎」葛港で溺死(明治12年没)

一家の墓は小福良落網代に現存(するらしい)