忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

安倍宗任の系譜 Y3-02

 母を病院に連れて行った。その目の前に五所明神がある。佐伯藩の一宮である。加茂、春日、住吉、梅ノ宮、稲荷の五所の明神を祭神とするのでそう呼ぶ。佐伯藩時代には旧切畑村の八坂神社から宮司を出してもらい名字も本家の橋迫から遠慮してか橋佐古に変えた。今はその大元を凌ぐ隆盛成った神社である。その宮司にお会いし話を伺った。寺の和尚は大概恰幅がいいが、ここの宮司は細身でより神様のお側に仕えている風に見えた。一般的に神社の方が寺に比べて世俗性が薄いのがいい。久々の快晴に鎮守の森は新緑で輝いていた。今の時期の新緑に適う自然美はない。(ブログ投稿「山笑う」

 柴田姓ルーツ探しが再開したのである。佐伯藩時代に神職を務めた柴田氏の子孫から新たな情報を得た。三代前までは霊峰尺間山の頂上にある尺間神社と佐伯藩主の信仰が厚かったその麓にある愛宕神社宮司を務めていた家とのことである。五所明神ともお付き合いしていたとのことで当たってみたのである。

 

 意外にもその祖は大友宗麟の家臣で島津家久の豊後攻めに対する最前線(日向口)に築城された朝日岳城主・柴田紹安と家系図にあるという。朝日岳城(佐伯市宇目地区)近くにも紹安の末裔を名乗る柴田氏がいるがお互いは最早他人の関係でその存在を知るよしもなかった。

 神職筋のその家系図によれば内陸の朝日岳城から旧切畑村(五所明神の本家・八坂神社がある)に移住後、佐伯湾沿岸・坂の浦を経て目の前の大入島・片神浦を最終地にしたとあり、以前の調査との齟齬(経路は大入島から内陸へ)がここに生じてしまったが、大入島柴田三兄弟に帰結する事は間違いなかった。「片神」という地名と神職に就いた点が何か暗示的ではある。対岸に霊峰彦岳、そのやや左遠方に霊峰尺間山が聳える。片神浦がまるで神域にあるように思えてくる。

 

 紹安をルーツとすれば、大神・佐伯氏の後継政権である毛利氏と武家神職かの取り決めがあったやもしれない。そもそも佐伯氏が紹安一族を捕え滅ぼした。毛利氏入封後は紹安を討った佐伯氏の多くの家臣は帰農している。一方、大入島の現柴田本家には柴田勝家を祖とする伝承もあるが定かではない。(「大入島物語」)

 さて柴田姓は奥州柴田郷をルーツとする。何故、その柴田氏が遥か九州まで来たったか筆者なりに既に結論は出している。前九年の役で滅亡した安倍氏嫡流安倍宗任の配流(伊予今治から筑前宗像)に付き従って来たとした。(「”くるすば”で迷走、完結編」) 

 柴田氏は安倍一族に連なる。宗任配流の地にまずは安倍(阿部)姓を追ってみた。最初の配流先の伊予では今治市に圧倒的に阿部姓が多い。特に伯方島が最大である。この当たりは村上水軍の拠点である。再配流先の筑前宗像も海人族宗像氏の拠点で海の支配者である。柴田姓は今治市には数えるほどであるが、福岡県には圧倒的に多い。(「”くるすば”で迷走、続編」

 

 ただ、安倍(阿部)姓比率は何故かその両県ではなく西日本では大分県に最も高く宗任伝承も多い。豊後は伊予と筑前の間にあり宗任が伊予から上陸した可能性は比較的高い。別府湾に面する杵築市に宗任が上陸したとの伝承があり「宗任石」が残されている。そこから阿部(安倍)姓を辿っていくと宗任の三男の「実任の墓」のある勝光寺に行き着く。近くの地名、「佐田」は何だか安倍貞任(宗任の兄)の「貞」を想起させぬこともない。この地方には貞任も落ちて来たとの伝承もあるのである。

 

 実任は海の武士団・肥前松浦党を起こしたと伝わる。後に壇ノ浦合戦で平家方の主力海軍になる。安倍氏源頼義、義家父子に滅ぼされた。源氏につくはずがない。宗任に縁のあるこの両所には偶然か「金ヶ崎(鐘崎)」の地名がある。奥州六郡・胆沢の金ヶ崎は宗任の居城で安倍氏本拠地鳥海柵がある。

 このように西国においては安倍一族は水軍に関係が深い。豊後大友氏のかつての水軍勢力、別府湾奥の真名井水軍、佐賀関の若林水軍の拠点にも阿部姓が多い。阿部姓最多集住地の大分市では大野川水運の要衝(河口)に多い。結論は明らかである。西国で安倍一族は海の支配者として密かに復権していたのである。ただ残念なことにこれらのルート上に柴田姓は追随していない。

 

 西国にはかつて同じ奥州にルーツを持つ佐伯部(蝦夷)が大和朝廷の俘囚として海防警護等の為に送り込まれた。その勢力が奥州の名族安倍氏を西国で担いだのではないかとの見方もある。

 大野川や豊後水道一円の海運や水軍力はかつて豊後の名族大神一族が支配した。大神・佐伯氏の佐伯地方もその勢力地である。大神一族の棟梁・緒方惟栄源範頼の平家追討に水軍を提供し弟義経は頼朝に追討されると惟栄を頼った。地元には惟栄の祖は宗任だとの伝承も残る。一方、惟栄は義経を助けるべく奥州に行ったとの伝承も地元に伝わっている。不思議な事に奥州には尾形(緒方の変名)姓が多い。筆者の段階ではこのことは未だミステリーのままである。因みに佐伯地方にも惟栄伝承(佐伯荘に隠棲した)が残っている。

 さて柴田姓である。何故か大分県においては佐伯地方に最も多い。安倍姓との関係をみると佐伯地方の阿部姓は別府湾沿岸ほど多くはないがそれなりにある。しかも海岸地方に集中している。松浦党の家紋を持つ家系もある。宗任からの海の繋がりが佐伯地方にも及んでいると考えたい。ただ柴田姓が佐伯地方に圧倒的に多い背景は分からない。

 

   

 だから佐伯地方の柴田姓が大入島を起源とするなら紹安の居た内陸から落ちて来たでは少々具合が悪い。安倍氏と常に一体行動をしていてもらわぬと説明がつかなくなるのである。柴田姓を巡っての混迷は更に深まってしまった。