忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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そうだ、旅に出よう 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(47)

 コロナ禍で気持ちよく旅行も出来ない。ここは江戸時代、豊後日出藩からの庶民の伊勢参宮日記を見ながら江戸期の旅に暫し思いを馳せてみたい。当時の庶民の最大の楽しみは伊勢参りである。伊勢参りを口実の上方への物見遊山でもある。時期は農閑期となる冬季に限られる。信徒仲間による伊勢講の積立により順繰りに旅行機会が巡ってきた。

 お伊勢参りが本格化するのは江戸時代であるが、それまでの御師(今で言えば神社のmarketerというところか)による市場開拓努力無しには実を結ぶことはなかった。多くの神社は財政危機(荘園制の崩壊)に陥り、その立て直しに御師が各地を巡り各神社の御利益を説き檀家を増やしていったことで生き返る。中でも伊勢神宮は全国規模展開になっていった。傘下の御師は最盛期には800人ほどに増え、全国の檀家は4百万軒超に達したといわれる。ざっと全人口の7割近くが伊勢神宮の檀家になったということになる。豊後担当の御師と言うように分担して各地に檀家を持つに至る。御師間で縄張りがあったのである。最大35万人の檀家を持つ御師も現れたというから驚きである(神社の代行者として御師が檀家と契る)。

 下図は参詣者が伊勢に着くと必ず渡ることになる聖と俗の境界の宮川の渡しの光景である。もっともこの川を渡ると夢のような“聖の中の俗のエンターテインメント”が待っていて参詣者は夢心地に浸ることになる。

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 参詣者はそれぞれを所管する御師の家に宿泊しもてなしを受けるのであるが、これがまた御師の腕の見せ所で山海の珍味、御神楽、ふかふかの絹布団、と経験したことのない世界が待ち受ける。明けて外宮、内宮への参詣は御師の手配した駕籠で廻る。総じて忘れ難い旅となる。伊勢参りというブランド価値が日本全国で高まらないはずがない。その御師の家の再現図がある。豪勢な屋敷である。それだけ御師の利益も莫大だったということである。

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 伊勢参りは古くからあった。豊後佐伯地方からも戦国時代から参詣している(1588年御師参宮帳:3年間で豊後550名中、佐伯207名)。今回、日出藩の渡辺という人が伊勢参宮記録を残しているのでこの旅に同行してみる。船旅である。通常は日本全国からの参詣者は徒歩によったが、船旅の場合は風次第、豊後出発時に既に3日間、帰国時には大阪安治川港で何と8日間も風待ちをしている。冬季は北風が多く上方方面には向かい風となる。往復で一週間も旅程に差が生じている。1588年の秀吉の海賊停止令が出るまでの海賊が跋扈していた時代は周防大島海賊、三島海賊、塩飽海賊の少なくとも三ケ所で海賊にも遭遇したはずである。

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 この時代になると沿岸伝いに航行する櫓と帆による”地乗り”航法から、河村瑞賢が17世紀末に西回り航路を開拓して以来、技術改善も進み帆走のみによる海の中央を抜ける”沖乗り”航法に変化していた。古来の沿岸の港は廃れ新たに沖乗り航路に面する”風待ち”や”潮待ち”の港が発展した。大崎下島の”御手洗”や倉橋島の”鹿老渡”等である。御手洗は佐伯地方に落ちて来た御手洗氏の本拠地である。倉橋島は造船が盛んでかつては遣唐使船も建造した。その為に豊後や日向から大量の木材を調達していた。佐伯地方からも調達していた可能性はある。日出藩からの伊勢参り一行の船は沖乗りを基本としつつも三島に至ると一部地乗りも行ったようである。

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 瀬戸内海の潮流は潮汐で生じる。東西から海流が流れ込み、あるいは流れ出ていく。”鞆の浦”の前の燧灘で東西の潮がぶつかる。だから鞆の浦は東西からの船の潮待ちの港として古くから発展して来た。

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 さて、一行の船は右に左に島々を縫って淀川河口の安治川港を目指した。抜いていくそれぞれの島には史跡や謂れが残っていて船旅の話題となったことだろう。風に吹かれて潮に押されて船はゆっくりと進んでいく。瀬戸内海の景色はさぞかし見応えがあったろう。

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 因みに戦国末期に島津義弘が佐土原から上洛した記録が残っているが、こちらは寄港地を見ると地乗り航法だったことが分る。ただ、往路の日数は250年後の伊勢参りの船旅とほぼ同じ10日間程度である。船や航法には大きな進歩はなかったということである。徳川幕府海禁政策によるところが大きい。かつてアジアに雄飛し海辺の人々が創造した海の文化や海洋技術の進歩は江戸時代に息の根を止められてしまっていたのである。

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 ここで陸路による伊勢参りについて東北地方の資料に見てみる。往復距離は2,000Kmを越え、しかも徒歩で2カ月以上の旅程であるから大変な旅である。それでも一日当たりの歩行距離は男性平均35Km、女性29Kmと健脚そのものである。最長で75Kmを歩いた記録もある。如何に船旅が気楽な旅であるかが分ろうというものである。

 旅行費用は伊勢講による援助はあるにして現在価値で一日あたり1万円が相場であったようであるが、これに御師への支払いや講仲間への土産費用を見ておく必要があった。因みに江戸時代の農民の平均年収は現在価値で200万円程度、大工では250万円前後と見られている。

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 さて豊後の伊勢参り一行は大坂に到着すると休む間もなく伊勢を目指すが、途中、慌ただしくも大阪や奈良見物を忘れない。奈良見物を終えると伊勢本道を通って伊勢入りしている。これだけの日程を擁しても伊勢滞在は僅か2日間というのも拍子抜けするが、その後、松坂、津、鈴鹿峠甲賀草津を巡り名所や食事を堪能しながら京都を目指している。京都が旅のメインイベントであったようで4日間滞在している。故郷の講仲間への土産も調達し淀川を安治川港まで川船で下り、帰りの船に乗った。ただ、ここで8日間も風待ちをすることになろうとは想定外であったろう。

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 それでも帰途、四国に立ち寄り金比羅宮参詣もしっかり消化している。往路とは違って復路は順風だったのか一気に豊後日出まで下っている。春遠からじ、故郷はそろそろ田植えの準備が始まる季節の到来であった。

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 春が近い。旅立ちの季節でもある。