忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

ひととせを想う

 一年はまさにあっという間に過ぎ去ってしまった。歳を重ねるに比例して時はそのスピードを増すと言うのはどうやら真実のようである。職業人であっても自由人であってもそれは変わりがない。それでも出来ることならこれに抗いたい。自分だけはそのように安易に老化による宿命というものを受け入れたくない。心の有り様次第で肉体に宿る精神は衰えることなく永遠の未来に繋がっていくはずだ、誰しもが抱くテーマではないだろうか。相応のエネルギーが必要である。それでもあっという間に一年は冷徹に過ぎ去ってしまうものであった。

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 昨年の三月末、自己都合退職を機会にブログに故郷をテーマに種々綴ってきた。謂わば、これをエネルギーの源泉とした訳である。エネルギーの使い方を誤ったかアウトプットの割には効果が乏しいものであったようにも思わぬでもない。手応えが乏しい、刺激が少ない、ことによるエネルギー損耗が発生してしまったのである。勝手な言草ではある。これからの一年を如何に過ぎ去り難いものにするか、新たな課題が加わったということである。

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 恋をしてみることはどうだろう。切なければ切ないほどいい。嗚呼、この胸を突く苦しさが早く過ぎ去って欲しい、という状況を与えてくれる人間行動の一つが恋である。時の経過が実に長く感じられるはずである(逆もまた真実かもしれない)。伴侶がいるとはいえ、別段、いかがなものかと考える必要はない。恋は様々である。ただ、残念なことに動物のように恋の衝動が発症する時期というものが人間には定まっていない。動物のような恋の季節という高い確率が保証されていないのである。これは残念ながら確実に年齢に比例する。そんなものは恋ではないと一笑されそうであるが、恋は生殖行動の手段なのであるからさして相違はない。もっとも恋は成就してしまうと味気ないものである。だから既に次の恋の機会を窺っているはずである。これは年齢に反比例する。

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 愛は別物である。愛する人が幸せであって欲しいと一心に願う心の有り様である。恋のように報酬を求めない。だから永遠性を持つ。歳を重ねると人間も神の領域に近づいていくような気がする。人や自然に対する謙虚な気持ちと尊敬と惜しみない愛が沸々と湧いてくる。心の波動が変調をきたすことが少なくなってくる。その活性が乏しくなる代わりに平安の波動が固定化していくような気がするのである。それが心地よい。愛する対象もより見えやすくなってくる。ここでは時の経過はさほど重要ではない。

 ひととせが過ぎた。

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 冒頭、故郷をテーマにこのブログを綴ってきたと書いた。その思いを小説風に表現するとこうなる。

 「望郷、その文字と響きを、今一度、胸の内に想起してみた。太郎はこれほど心を揺さぶる言葉を何故か他に知らない。薄雲が残照に映えて遠く山端(やまは)が夕闇に濃さを増していく静謐な光景がきまって心中に像を結ぶ。人生を振り返る相応の齢(よわい)を迎えてみると、すべてがその像に収斂していくのである。果たしてこの国に生まれ育ち只管(ひたすら)に生きてきた者全てに迫りくる想念ではなかろうか、真摯に生きたことへの母なる山河が最期に発する愛の呼びかけなのではなかろうか。母なる大地の懐に今身を委ねることが叶うのであれば、最早、己の人生に悔いはないとさえ思うのである。太郎は、それが人間の究極の幸福と素直に信じ始めている己を可笑しく思う。そういう人生の薄暮を迎えようとしている。」

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 ブログに綴ってきた文章を振り返って見ると必ずしもその思いにシンクロしていない。感情移入を極力抑制した為であろう。ただ、一つ言えることがある。己が如何に故郷の歴史文化に関心を払ってこなかった人生にあったかを痛切に思い知らされたことである。人生を育んでくれたのがその無関心に放置してきた故郷であったことを発見するに至ったことである。慚愧の念の一方でそれを思い知る機会を持てたことの幸福感を素直に受け入れてもいいだろう。

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 さて、多くの人にとって一地方の歴史文化などに興味は湧いてこないのは道理である。その一地方に住む人々にとってもまた同じことが言えるのかもしれない。己の故郷の歴史文化に疎い。多くの人にとって故郷の歴史文化に思いを馳せる時期はいずれ確実に到来するように思う。そうあって欲しい。人間は一度ならず己の存在の何たるかを考えさせられるように出来ている。故郷の歴史文化が示唆してくれるものは実に大きい。それはまたその後の馥郁たる人生の味わいに繋がってくるようにも思う。

 「忘れなそ、故郷の山河」、と言わしめる理由である。

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 このひととせに綴った文章を下記に分類してみた。投稿数は全92件、一稿平均2千字とすると400字詰め原稿用紙で460枚相当といったところである。質より量と考えれば一冊の本を書くには十分な量ということになる。 

 海外物は除くとして内容を分類すると地名や地理に関するテーマが意外と多いが、まあ満遍なく取り扱うことが出来たように思う。

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 文章を書く視座としては、出来るだけ世界や日本との関係性に配慮したつもりである。特に歴史文化というものはその視点を欠いては説得力を欠いてしまうからである。それ以上に苦慮させられたのは、何しろ我が故郷は日本の歴史文化には殆ど登場することが無いという無力感である。当該研究分野においてはどうでもいい地方ということである。これでは多くの人に対して読むインセンティブを提供出来ない。書く側としても資料収集が覚束ない。こうなると故郷の人々がその故郷の歴史文化に関心を持ってくれることが唯一の支えになる。一方でそういう地方史に興味を抱いてくれる歴史好きが何処かにいるはずであるとも密かに期待しているのである。

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 自分なりに納得出来た投稿が一つだけある。歴史文化についてではないが、日々雑感として投稿した「母のツバメ」である。結果的には、これがもっとも故郷のテーマを象徴出来ているような気がするのである。

 あらたなひととせが始まる。

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