忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

小春(国木田独歩と豊後の国佐伯) Y2-16

 「忘れなそ、ふるさとの山河」という著書名(及びブログ名)は故郷を去った筆者に対する今は亡き父の言葉である。忘れるどころか望郷の念は哀しい程に深い。だから「小春」を読むと佐伯を想う独歩の心情が痛いほど分かる。

 

 小春とは(辞書によれば)、初秋の穏やかで暖かい春に似た日和が続くころで、陰暦十月の異称である。

 十一月某日、独歩は画家を目指す後輩と野に散歩に出る。素晴らしい小春日和である。この時分、独歩は誇り顔に「我は老熟せり」と言ってはいるものの、世間との折り合いが上手くいかず家に引き篭もって鬱々とした日々を送っている。

  

 野に出て寂たる林間に絵を描きながら後輩は、自然に身をまかせ瞑想している独歩に何気なく問う。「人の一生を四季に喩えるようですが、春を小生のような時として、小春は人の幾歳位に喩えて可いでしょう」。独歩は「僕のようなのが小春だろう」と答えて、知らず未だ嘗て経験した事のない哀情が胸を衝いて起こる。「君が春なら僕は小春サ、小春サ、今に冬が来るだろうよ!」。「ハハハハハ冬が過ぎれば又た春になりますからねエ」と他意もなく後輩は軽々と答える。そういう話である。

 この時、独歩が佐伯を去って既に七年が過ぎている。ワーズワースともいつしか疎遠になっていて「曾て自分の眼光を射て心霊の底深く徹した一句一節は空しく赤い線青い棒で標点けられてあるばかり(かつて佐伯で何度も詩集を読んで感銘した箇所に下線を引いていたのである)最早自分を動かす力は消え果てて居た」。「ワーズワースが自分を見捨てたのだ」。

 嘗ての自分のように今自然を愛する後輩は独歩が佐伯に逍遥した時と同じ歳にある。そしてその人生はまさに春の時節にあるという妙がそこにある。


 ワーズワースは、嘗て過ごした湖水地方の自然を「”常に”心に思い浮かべながら」、この世の苦悩にもがき暗澹たる日夜を都会の喧騒の中に送っていた。そこが独歩と違うところである。そして五年後、その湖水地方を再訪しそこにこそ真の人生の意味を感得する。

  

 独歩はワーズワースに符号するように七年前の佐伯での日々を「”今”思い起こし」想いが溢れ出てどうしようもない。「自分は今ワイ河畔の詩を読んで、端なく思い起こすは実にこの一年間の生活及び佐伯の風光である。彼の地に於いて自分は教師というよりも寧ろ生徒であった、ワーズワースの詩想に導かれて自然を学ぶ処の生徒であった」。ただ佐伯への再訪は叶わない。それでも、今その日々を思い起こし、人生の核心がそこにあった事に思い至る。その時、ワーズワースは最早独歩を見捨てていない。「自分が真にワーズワースを読んだは佐伯に居る時で、自分が尤も深く自然に動かされたのは佐伯に於いてワーズワースを読んだ時である」。

 独歩が今思い起こす佐伯の光景が実に美しい。ワーズワースの描く湖水地方と対比して実に美しい。独歩は後輩に対してそれらの光景の感動を語り切れない程である。筆者も今、「人生の小春」にあって、独歩を読むと父の眠る美しい故郷、佐伯への想いが重なって来て感涙をこらえきれない。ワーズワースをして独歩をその人生の小春の時分に原点回帰せしめたに似る。

 独歩は久し振りに読み返したワーズワース詩集の中に、かつて佐伯で自らが二重にも下線を引いていた句を見出し、小春の日にあらためて噛みしめるのである。

 「自然は決して彼を愛せし者に背かざりしを我は知れば也」、自然はそれを愛する者を決して裏切らない。

 

<小春より抜粋>

・自分の眼底にはかの地の山岳、河流、渓谷、緑野、森林悉く鮮明に残って居て、我故郷の風物よりも幾倍の色彩を放っている。

・自分は詩集をその儘にして静に佐伯のことを憶いはじめた。流石に忘れ果てては居ない、あの時の事この時のこと、自分の繰り返した逍遥の時を憶うにつけてその時自分の眼に彫り込まれた風光は鮮やかに現れて来る、画を見るよりも鮮明に現れて来る。秋の空澄み渡って三里隔つる元越山の半腹から真直ぐに立ち上がる一縷の青煙すら、ありありと眼に浮かんで来る。

・ちょうど君の歳だった、僕がワーズワースに全心を打ち込んだのは。その熱心の度は決して君の今画に対する熱心に譲らなかった。君が画板を持って郊外をうろつき廻って居るように、僕はこの詩集を懐にし佐伯の山野を歩き散かしたが、僕は今もその時の事を想い出すと何だか懐かしくって涙がこぼれるような気がするよ。

・「山!」と自分は思わず叫んだ。この時自分の端なく想い出したのは佐伯に居る時分、元越山の絶頂から遠く天外を望んだ時の光景である。山の上に山が重なり、秋の日の水の如く澄んだ空気に映じて紫色に染まり、その天末に糸を引くが如き連峯の夢よりも淡きを見て自分は一首の哀情を催し、これら相重なる山々の谷間に住む生民を懐わざるを得なかった。

・独歩は、その他に11/3の記(女島を逍遥し海近き番匠川口から灘村への渡船の光景)、11/22の夜(月下の番匠川畔、船頭町の渡船の光景)、11/26の記((堅田隧道を経て津志河内を逍遥した時の光景)、等の忽然として夢の如くに過ぎた日々を日記の中に辿るのである。


ワーズワース詩集より独歩の抜粋>

・此処には雨、心より降り、晴るる時、一段眩ゆき天気を現し、鳴らざりし泉は鳴り、響かざりし滝は響き、泉も滝も、水溢るれども少しも濁らず、波も泡も澄み渡り青味を帯べり

(我が佐伯もそうである)

・往々雨の丘より丘に移るに当たりて、或いは近く或いは遠く、或いは幽く或いは明かに、

(亦た全く同じである)

・(雲霧を見て)或いは黙然遊動して谷より谷に移るもの、往々にして動かざる自然を動かし、変わらざる景色を変え、塊然たる物象を化して夢となし、幻となし、霊となし、怪となし、

(水多く山多き佐伯に亦た実にそうである)

・嗚呼ワイの流! 林間の逍遥子よ、如何に縷々我心汝に振り向きたるよ!

(その通りであった、我心はこれらの圧力を加えらるる毎に数々番匠川畔の風光を憶った)