忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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生活文化の青殺 Y3-03

 「青殺(さっせい)」、何とも非情な言葉である。茶の生葉がその酵素により発酵するのを熱処理して止める事をいう。「失活」ともいう。こちらの方が未だ茶に対して温情がある。

  

 古来、茶は日本の生活文化の重要な位置を占めてきた。かつては生糸と並ぶ主要な輸出商品として外貨を稼いだのは周知の通りである。日本の茶の文化は、八世紀頃、遣唐使や留学層が中国から持ち帰った事に始まる。

 中国では紀元前2800年頃、伝説上の人物「神農(農業の神様)」が解毒剤として用いた事に始まると言われる。日本に伝来当初は蒸して固めた「固形茶」を煮込んで飲んでいたが、鎌倉時代になると宋で流行っていた茶葉を粉末状にして湯に溶かして飲む方式に変わった。

 「青殺」には熱を加える時の処理上の違いがある。「蒸して」発酵を止めるか、「炒って」止めるかの違いである。前者を日本式(蒸し茶)、後者を中国式(釜炒り茶)と呼ぶ。

 1738年に宇治の「永谷宗園」が蒸し茶の製法を進化させた(手揉みによる蒸し茶)。この新しい製法が開発された事で蒸し茶が一気に全国に広まって行った。その結果、日本では今では釜炒り茶の生産量は緑茶全体の0.5%以下の希少茶になってしまった。その生産効率の低さによる。採算が合わない。

 中国では今でも釜炒り茶が主流である。文人墨客が培ってきた喫茶文化とその味覚(釜香)が故による(筆者の勝手な推測)。

 釜炒り茶は水分量の豊富な一番茶を使う。旨味成分のテニアンが多い。蒸し茶は水分を外からも与えられるので二番茶、三番茶も使う。苦味成分のカテキンが多くなる。因みに宗園が江戸で販売を委託した茶商が「山本山」の山本嘉兵衛である。「永谷園」は宗園の末裔が近年になって創業した。

 釜炒り製法は中国、あるいは朝鮮半島経由で九州に伝来し全国に広まっていったが、やがてこれを宗円の新技術(蒸し茶)が代替していく。その製法は九州の山中には及ばぬままに幸か不幸か釜炒り製法は温存された。文化の届きにくい僻地という事でもあろう。今では佐賀県(嬉野)、熊本県(芦北)、宮崎県(旧西臼杵郡)の山中に細々と営まれるばかりである。

  

 「因尾茶」という世間では黙殺されているに等しいブランド茶(と信じている)がある。佐伯地方の山間地に今も伝承されている釜炒り茶である。「宇目茶」も同様である。お隣同志である。日豊は昔から政治的文化的関係が深いが、佐伯地方の隣に高千穂を含む釜炒り茶の主要産地の「旧西臼杵郡」がある。相接するこの日豊一帯は九州でも僻地性が濃く、釜炒り茶も同じ生活文化の一つとして残って来たに違いない。釜炒り茶は宮崎県が6割ほどを生産する。ただ、釜炒り茶の全国生産量は年間235tしかない。今や緑茶市場では0.3%程度の希少茶である。

 佐伯地方では釜炒り茶は今も主流で昔は味噌や醤油と同じ様にどの家でも自家用に作っていた。ただこの製法も次世代に繋がるか保証の限りではない。蒸し茶と違い製茶に生産者の感覚に負う部分が多く職人技を必要とする事や水分量の多い時期の新芽(一番茶)しか使わない為、生産効率が悪く大量生産に向かない。蒸し茶は二番茶、三番茶も使え、これが大手企業の大規模経営を可能にしている。

 繰り返すが、釜炒り製法の途絶危機の最大の要因は採算が全く合わない事にある。換言すれば市場にその価値を伝えきれていない。飲めばその香ばしく渋みのない旨味の虜になるであろう。「飽きない茶」なのである。水色は「黄金色」に輝く(”緑茶”が美味しい色なのではない)。緑茶(釜炒り茶を含む)の鑑定に携わる試験官は99%の蒸し茶(煎茶)を鑑定しているにも関わらずそれでも多くが釜炒り茶しか飲まないらしい。その味の違いに陰ながらお墨付きを伝えているようなものである。

 筆者を含めてこの地方では子供の頃から釜炒り茶を飲んできた為その味が当たり前になっている。青年になり都会に出て行って暮らすうちに茶への関心も故郷に対すると同様に薄れていく。そこでは煎茶(蒸し茶)が席巻している上に都会の生活様式が茶の占める位置をなくしていく。

 故郷では食卓の主役は今でも茶である。母もその”試験官”の一人で味にうるさい。最近、製茶の一番多忙な時期にも関わらず、因尾の製茶工場(釜炒り茶)を見学させてもらった。まもなく百周年になろうという貴重な大正期の木造建築でもある「故郷資料館(旧因尾村役場)」を訪ねた時に大気中に濃密な新茶の甘い香りが立ち込めていて茶の記憶が覚醒、いてもたってもたまらず見学をお願いしたのである。

 朝晩茶を飲む生活習慣が衰え今では若い世代に急須がない家庭も増えた。ペットボトルの茶を買えば済む。何といっても茶を入れた後のゴミが出ない。利便が味覚に優先する新たな茶文化の出現である。「味なら蒸し茶には負けないのだが」と快く工場見学を受け入れてくれた代表が漏らした。茶作りは米を作る以上に厳しい事に加え、それだけでは食っていけない、「子供に後を継げと言う気はない」。釜炒り茶の価格は蒸し茶の価格に従わざるを得ない現状がある。希少性とその味の魅力が価格に転嫁されていない珍しい物産である。

 江戸期には上方でも評判を取った「佐伯半紙」、「佐伯白炭」の技術伝承は既にこの地に途絶えた。同じこの土地に始まった椎茸の人工栽培(江戸初期の源兵衛翁による開発)とこの地に継承されて来た製茶(独特の釜炒り技術)がこれに続こうとしている。かつて浦方の漁業と共に藩政を支えた在方の生活産業の余命いくばくも無い。椎茸も茶も本当に美味い。この地ならではの地勢が産み出した逸品である。その喪失を僻地のせいにはしたく無いものである。

 そうこう言っているうちに今年の新茶が“我が家の試験官”に早速届けられた。

(補足)本文の内容に関しては本匠堂ノ間・小野農園代表のお話を参考にさせて頂いた。