忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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笑わない佐伯の歴史3、海部に関する考察

1.海士と海女と海人と海部と白水郎

 いずれも「あま」と呼ぶ。海士は男性の”あま”、白水は水に潜って獲物を採るのが上手な人がいた中国の揚子江流域の地名、白水郎はその人々のことをいう。いつしか日本列島に到達したのであろう。国籍など無用の海に生きる人々の集団であるから移動制限はない。 
 白水郎のようなアジア各地から航海術、漁撈に優れる集団(海洋民)が列島にたどり着き、その隅々に殖民し大勢力となっていった。これらの人々の総称を海人族という。

豊後と万葉歌と白水郎と Y2-01 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

2.自由民から部民へ

 海人族の祖神は「綿津見神(ワタツミのかみ)」、”ワタ”は海の古語、”ミ”は神霊、で「海の神霊」と解される。ワタ(和田)、ヤタ(八田)、ハタ(波多)、などの発音を持つ地名は海人族の殖民したところで、彼らが自由に行き来した時代の名残である。

 海人族は神武東征(天孫族)以前から日本列島に殖民しネットワークを張っていた大勢力であったが、記紀においては王権確立に協力した勢力という見立てになっている。神武天皇は海人族との二代にわたる婚姻の結果生まれたことになっているのも海人族が無視し得ない勢力であったことの証明であろう。

 こうして海人族は大和王権の成立に伴い、それまでの自由な生活から「部民(海部)」として、あるいは豪族として、王権に組み込まれていく。

海人族と神武東征 Y3-01 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

3.海人族の痕跡

 「海部郡(あまのこほり)、この郡の百姓は皆、海辺の白水郎である。よって海部郡という。」(豊後風土記

 律令時代に「国郡郷制」が定められ各地(豊後、隠岐紀伊尾張)に海部郡が成立したが、それ以外にも郡の下の郷の地名や祖神を祀った神社に今も海人族の名残をとどめている。一方、平成の大合併で消滅してしまった地名も多い。千年以上続いていた「豊後海部郡」は消滅してしまった。


4.海人族の系譜                    

 「新撰姓氏録」から中央や地方で活躍した海人族に関係する氏族を知ることが出来る。また、海人族が信仰した神社には古代からの氏族が連なる。

 志賀海神社(安曇氏)、住吉神社(津守氏)、宗像神社 (宗像氏)、籠神社(海部氏、尾張氏)などが特に著名である。北九州に拠点を置いた安曇氏や宗像氏などは日本最初の大陸との交易集団でもあった。いずれも遡れば縁戚である。

 後の時代の大和豪族にも安曇氏の系列である大伴氏などがある。古代王権における海人族の位置を推し量ることが出来る。

 因みに、歴代の天皇の中で最も英傑といわれる天武天皇の即位前の名前は「大海人皇子」である。幼少時の養育者が「大海氏」だったことによる。

 天皇家と海人族の繋がりは深い。

5.まとめ

 豊後は日本有数の海人族の拠点であった。大和王権による「三韓征伐」にも駆り出された。その報償の薄さに反乱を起こしたのも彼らである。これを平定したのが安曇氏の祖である「大濱宿祢」で、この功績で海人族の統率氏族となり中央でも勢力を増していく。

 豊後佐伯地方は、古来、海人族の要地である。元を辿れば南方や中国沿岸地域からの海洋民が住み着いたのであろう。海を通じて瀬戸内海や紀伊の海人族との繋がりも民俗伝承に残る。律令時代になると海部郡の首長である「海部公」の支配下にはいり、中世には水軍としても名を馳せた。近年、帝国海軍に武力の拠点(海軍航空隊・海軍防備隊)として選ばれたのも、その地勢が故とはいえ運命的である。

 それ故に、この地の民族の歴史の象徴である「海部郡」を継承出来なかったのは如何にも不覚であった。

  紅に 染めてし衣 雨ふりて にほいはすとも 移ろはめやも

  (豊後国白水郎、万葉集、詠み人知らず)

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