忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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笑わない佐伯の歴史5、王朝時代の佐伯の主都

1.中心地

 古来、族長や首長が住む場所はその生活圏の中のもっとも恵まれた地(食料生産、諸資源、物流等)であったろう。防御に優れる地であれば尚良い。そういう場所が国や地域や集落の中心地に選ばれて来たはずである。もっとも古代王権はその中心地を頻繁に変えた。それ以外にも理由があったからである。

2.遷都

 天皇が居住するところ、政治の中心が「都」だが、古代には天皇(大王)が変わる度に新たに都を建設し遷都した。飢饉や疫病等、多くの災禍は怨霊の作用と信じられていた時代である。遷都はそれとの縁切りの意味があった。先代の死は宮に穢れを残す、時に怨霊も跋扈する。だから清浄の地を求めて遷都するのである。

 もっとも中国の「条坊制」のような大規模な都城の建設は「藤原京」以降であり、それまでは都といっても天皇(大王)の宮殿が主体の小規模なものであった。それにしても短期間での再三の遷都は大変な出費を伴ったであろう。

3.首都

 やがて大王家は土地と人民を私有し勢力を保持する豪族の存在が疎ましくなる。大王家に権力を集中させねばならない。国法を定め中央集権を目指す為の遷都へと背景も変わってくる。大規模な都をつくり官人に行政を担わせ、豪族を都に移住せしめ、その地縁を断つことで王権の確立を図っていく。初めて中国の条坊制を取り入れた都、藤原京がそれを体現した。

 以降は内外に発生する脅威に対処すべく国家的意識を喚起するため、旧体制との決別のための遷都が主体になっていく。最後はすべての都市機能を満たす適地として「平安京」に落ち着いた。

4.佐伯地方の”主都”

 王朝時代の頃の佐伯地方の”主都”は不明である。元々は漁労が主体の白水郎(海人族)が住む地である。定住地を持たず海上での移動生活を専らにしていたはずである。弥生、古墳時代になると集団居住跡や小規模ながらも墳墓が海岸近くに見られるようになる。

 律令時代になると豊後国海部郡の出先機関が佐伯地方(穂門郷)に置かれるようになり、この地の中心が定まってくる。人々は自由人から「部民」として朝廷に帰属せしめられ定住化が更に進んでいく。

 佐伯地方の中心らしき場所は「院倉」である「佐伯院」のあったところであろう。藤原純友天慶の乱において一味が「海部郡佐伯院」を襲撃したとの記述が初見である。戸穴地方あるいは狩生地方に比定される。五丁(後庁?)、アセチ(按察使)、首山、ボウコウ(暴行?)といった政治臭のする地名も残っている。

 その後、「戸穴荘」や「佐伯荘」の名前が頻出するようになるが場所を特定し難い。荘園である。大規模に米作可能な地が想定される。佐伯地方には二か所、相応しい場所がある。番匠川流域(上小倉、古市)と堅田川流域(上の台、波越、市福所)の沖積地である。どの地にも古塔や石祠、あるいは由緒ある地名が残っていることも中心地であったことを示唆している。

5.大神佐伯氏の進出

 12世紀頃までには豊後の中央を流れる大野川流域を中心に覇権を確立した大神氏が進出し佐伯氏を名乗る。栂牟礼山の麓の古市に居館が置かれたことは間違いないが、当初は戸穴地方あるいは堅田地方であった可能性もある。堅田地方は「高城」の存在と「大内水軍」の襲撃(1441年)を受けたこともここが中心であったことを思わせる。「栂牟礼城」は遥か後の16世紀初頭に築かれている。防御を固める為に海に近い堅田から古市に拠点を移したとしてもおかしくない。

 もっとも弘安図田帳(1285年)では佐伯荘180町中、本荘120町、堅田村60町とあり佐伯氏の支流が堅田村を受領している。本荘は堅田地方ではないということになる。堅田地方での佐伯氏(堅田氏)の居館は上の台あたりが比定されるがこれも特定出来ていない。

 市福所の「潜龍塔」も注目である。潜龍とは「しばらく帝位につくのを避けている人、まだ世に出る機会を得ていない英雄」を意味する(Wikipedia)。この地に高貴の人物が住んだということである。佐伯氏は南朝についた。山向こうの海岸にある「粟嶋神社」には懐良親王の上陸に因む伝承がある。市福所に「懐良親王」あるいはその子孫が隠れ住んだとの伝承も故無しとしない。よってここも主都たりえる。

4.まとめ

 弘安図田帳の佐伯荘180町(条里制)は現在の2.1㎢に相当する。本荘120町は1.4㎢、堅田村60町は0.7㎢となる。どの地も該当しそうな広さである。それぞれの候補地の江戸期の生産高(石高)をみると下表の通り、「上小倉周辺」が最大の穀倉地帯で「堅田地方」がこれに続く。戦国時代の古市は主都として確定としても、王朝時代の佐伯地方の主都は何とも決め打ちが出来ないのである。