忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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おらが国 Y2-08

 日本では、7世紀、律令時代に定められた60余国(令制国/旧国)が概ね現在も行政体として地理区分として継承されている。都道府県境が当時と変わっていない。つまり1,300年間、これの総体としての日本の国境も大きくは変わっていない事を意味する(例外的に周縁の蝦夷、隼人の地があるが)。これは珍しい事ではないだろうか。

 世界では国境は常に変更されて来た。歴史的にそれが当たり前なのである。日本の特異性は、常に歴史の表舞台となってきた大陸の周縁のしかも島国という立地条件にもよるのかもしれない。イギリスも概ね同様である。そこでは人や物が大規模には交錯しない。

 

 今でも日本では人々は出身地(かつての旧国、あるいはその中の旧藩)を語る時、”おらが国、私の国では”と言う。ついでに自慢したがる。近代国家として使われている国に近い意識が人々の心の奥底に未だ残っているのであろう。幕末までは紛れもなくこの日本の中にそれぞれの国が確かにあった。それだけに隣国(都道府県)への対抗意識は今でも相当に根強い。行政単位(市町村)が下がると尚更である。極論すれば1,300年間に培ってきた民俗文化が多様で多彩という事でもある。海外の多くの国々のような国境変更に伴うその破壊を受けていない。だから民俗文化遺産としても価値があり大事にしなければいけないのである。まさに”おらが遺産”といわなければいけない。

 そもそも境界線(国境)は山や川といった地勢の影響を受けて自然に定まる。政治的な意図を受けて人為的に決まったものは日本においてはほぼ無い。世界ではそうはいかない。自然的国境と人為的国境が混在する。前者は民俗文化を形成し後者はこれを分断あるいは破壊する。無論、国境が曖昧なままの状態にある(している)ところもある。ここでは人々が自由に往来してきた(アラビア半島遊牧民の移動がそれである)。国境は国家意識が萌芽して初めて現れた概念である。そう古い時代のものではない。それまでは大体が曖昧なままだったのである。

 結果的に世界には面白い国境が生じた。民俗文化はズタズタにされたか、あるいは調和的である。

 

 日本でも稀に民俗文化の側面から面白い境界が生じている。

 さて我が佐伯地方である。令制国時代は豊後国の海部郡に属した。ただ、その郡衙国衙の近く(現在の大分市東部)に置かれていたから果たして佐伯地方がその領域にあったかは怪しいものである。まさに曖昧な土地だったに違いない。

 ただその後は明らかに地勢が境界を作り固有の民俗文化を醸成させた典型的な土地柄である。この間、人為的に裂かれた事も無論ない。地元民は当事者だから気付いていないだろうが極めて独特の風土を有する土地柄なのである。大分県下でも画然として違う。近年、鉄道が通って初めて門戸が開いたような土地である。だから“おらが国”といっても大いに納得である。

 佐伯地方の境界線は山陵そのものである。自然的国境である。山陵にぐるりと取り囲まれている珍しいところである。結果的に九州最大の行政面積を有する事になった。だから、まさにガラパゴス島やギアナ高地のようなところかもしれない。希少な植生が保存されている(に違いない)。希少なホモサピエンスも住んでいるとは流石にそこまでは言えない。

 だから藩政時代に遡っても甚大な国境紛争というようなものが発生しようがない。ちょっかいの出しようがない。国境が誰の目にも明確なのである。

 ひとつだけあった。厳密には当時は旧岡藩の領地(現在の佐伯地方西部の宇目地区)だったが延岡藩との紛争である。佐伯側から(旧岡藩側から)結構な標高のある稜線を越えて向こう側の木を伐採した事が発端となった。岡藩では我が領地との認識がある特別な土地であった背景もある(梓峠を越えてある梓大明神は岡藩領の宇目七社の一つ)。延岡藩の詳細図をもっての幕府への訴訟沙汰に発展した。敗訴である。この地方では稜線が証拠となるのである。

 もう一つ見つけた。ここでは国境(県境)を誤魔化されてしまった。これも延岡藩との海岸地域の漁業に関わる国境紛争(大乱闘)である。今でいう排他的経済水域、いやまさに領海である。江戸時代から日本各地で国境沿いの漁業紛争が絶えず、明治政府は「不明瞭な国境を画定する」お触れを出した。山縣有朋が裁定を下した。延岡側の勝利である。こちらは明らかに昔の地図が証拠として残っているにも関わらず、山縣のエコ贔屓と言わざるを得ない。江戸期の証拠よりは革命政府の方が強い。因みに伊能忠敬の測量図ではこの部分は和田鼻として曖昧な表記になっている。何ともややこしい。要は辺境の地であるからどうでもよかったということでもあろう。

 

 以上、いずれも戦争まで発展するような大袈裟な揉め事ではない(両紛争については佐伯史談会資料に基づく)。

 ついでである。佐伯藩は初期のお家騒動の結果として上述図の通り領内に面倒を抱え込んでいた。これも国境紛争と言えば言えなくもない。稜線の内側に幕府領を二箇所(10ケ村)、二千石ほど抱え込んでしまったのである(元は佐伯藩領であるが藩祖の弟が領地を幕府に返上してしまったことによる)。藩が幕府より管理を任されたものの幕府領側の領民が何しろ強かった。佐伯藩を何度となく訴えている。いずれも佐伯藩側に理があるように思うが藩としては穏便に済ませざるを得ない。幕府の機嫌を損ねる訳にはいかない。紛争に関与した家臣は罷免である。この性情だけは民俗文化としては頂けないものの、”おらが国”を守る為には仕方がない。

 こうしてご先祖様達が営々として守って来た”おらが国”が現在に至るまでそっくりそのまま残されている。だからもっと“おらが国の風土と歴史民俗”を高らかに喧伝しつつ、未来に継承していかなければならない。自ら人為的に放置、破壊する愚を犯してはならないのである。

 

了