忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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鹿狩(国木田独歩と豊後の国佐伯)Y2-14

 「歎かざるの記」は国木田独歩大分県佐伯市に赴任する半年程前に起筆した日記である。よって佐伯地方の情景や独歩のそこでの思索状況も実に細やかに綴られている。小説の題材も多く散見される。

旧坂本邸(独歩の寄宿先)

 

 当時の佐伯地方をこの日記やその小説に探索してみる。佐伯地方に拓きたい各逍遥路に物語を加えたい一心からでもある。手始めに「鹿狩」から見る。

 日記には鹿狩に行った事実だけしか書いていない。よって小説の主人公(少年)に独歩を仮託し、独歩の具体的な鹿狩体験を小説から推察する。少年は「中根の叔父さん」に鹿狩に誘われた。

 舞台は「鶴見半島」である。まさに「しし垣ルート」が重なってくる。時期は赴任した年の12月初と冬である。空気は澄みきっている。一行10人、「桂港(葛港)」から鶴見半島の「猿戸」まで海上5里を帆船で行った。夜半出発し明け方着く。帰路は海路と陸路に分かれ、独歩は陸路「浦代峠」を越えて佐伯に戻った。

 独歩の冬の夜半に暗い海に漕ぎ出す不安とやがて遭遇する光景への畏怖とも畏敬とも思われる心情が伝わってくる。

 「冬の寒い夜の暗い晩で、大空の星の数も読まれるばかり鮮やかに、舳で水を切ってゆく先は波暗く島黒く、僕はこの晩のことを忘れることが出来ない。」

 「陸の方では燈火一つ見えないで、磯をたたくたたく波の音がするばかりで、暗く寂としている。そして寒気は刺すようで、山の端の月の光が氷ついているようである。僕は何とも言えなくて物凄さを感じた。」

佐伯湾と鶴見半島

 

 翌朝、独歩が狩の日にみた鶴見半島からの光景は実に鮮やかである。鹿狩の場所も特定出来そうである。

 「朝日が日向灘から昇ってつの字崎の半面は紅霞につつまれた。茫々たる海の極は遠く太平洋の水と連なりて水平線上は雲一つ見えない、又た四国地が波の上に鮮やかに見える。総ての眺望が高遠、壮大で、且つ優美である。」

猿戸の峠から日向方面

 

 「丁度午後一時ごろで冬ながら南方温暖の地方ゆえ、小春日和の日中のようで、うらうらと照る日影は人の心も筋も融けそうに生あたたかに、山にも枯草雑じりの青葉少なからず日の光に映してそよ吹く風にきらめき、海の波穏やかな色は雲なき大空の色と相映じて蒼々茫々、東は際限なく水天互いに交わり、北は四国の山々手に取る如く、更に日向地は右に伸びてその南端を微漠煙浪のうちに抹っし去る、僕は少年心にこの美しい景色を眺めて、恍惚として居たが、いつしか眼瞼が重くなって来た。」

 今もその光景は変わることなく残っている。

米水津湾から鶴見半島(鹿狩場)

 

 次の文で猿戸から「間越」への峠が鹿狩りの起点だと推察出可能である。峠で道は三方向に分かれる。鶴御崎へ、猿戸へ、そして中越浦へ。現在の自然研究路入口からワルサ山、鶴御崎方向へ踏み入った事が分かる。入口の地蔵尊を独歩も拝んだに違いない。道の分かれには何処でも必ず地蔵尊がある。

 「爪先あがりの小径を斜めに山の尾をと横切って登ると、登りつめた処がつの字崎の背の一部になっていて左右が海である、それよりこの小径が二つに分かれて一は崎の背を通してその極端に至り一は山の彼方に下りてなの字浦に出る。」

 「猟場は全く崎の極端に近い山で雑草荊棘生茂った山の尾の谷である。」

峠の研究路入り口と地蔵尊

 

 鹿狩りはワルサ山を過ぎて鶴御崎に近い山中で行われたのである。ただ岬に向かって半島左手には段々畑を囲うしし垣が延々と続いている為、鹿狩りは右手の山中、その尾根が平になっている場所で猟犬を使って行われた。四国が遠望出来る場所でなければならずワルサ山近傍からは四国は見えないし、また、そこを過ぎないとしし垣も現れない。だから猟場は「梶寄」の近くだったかもしれない。もっとも当時は半島の尾根まで段々畑が拓け樹木に視界を遮られる事はなかっただろうから何処からでも四方を遠望出来たのだろうが。

 「元が御崎であるから山も谷も海にかぎられていて鹿とても左まで自由自在に逃げ廻ることはできない。又た人里の方へは、全然、高い壁が石で築いて有って畑の荒らされないようにしてある故、その方へ逃げることも出来ない。」

 六頭の鹿を仕留めた。実際、独歩が鹿を仕留めたかは分からないが、主人公がもっとも大きな鹿を撃った。独歩は最初は「こんなところに本当に鹿なんているのだろうか」と思った。今でも猪ならいるが、確かに鹿はいそうな気がしない。いずれにしても独歩の時代、しし垣は「鹿垣」と表記するのが妥当だったという事になる。

延々と十数キロ続く鶴見半島のシシ垣と里道

 

 当時はしし垣に並走する「里道」は使われていたから陸路は里道を通って浦代峠まで戻ったのだろう。独歩もしし垣には圧倒されたに違いない。浦代峠では同行者が「中根の叔父さん」の為に黒い鳥を撃った。それは岩烏で「狂人の薬」になる。叔父さんの息子に食させる為の同行者の善意である。その後、叔父さんの息子は叔父さんが鹿狩した鉄砲で自殺した。独歩の佐伯の知人に狂人の子供は実在している。

 その後、少年は幾度も叔父さんのお伴をして猟に行ったが(同行者は)「岩烏を見つけるとソッと石を拾って追って呉れた、義父(少年は叔父さんの養子になる)が見ると機嫌を悪くするから。」

浦代峠のある元越山

 

 「人の善い優しい、そして勇気のある豪胆な、義理の堅い情深い、そして気の毒な義父が亡くなってから十三年忌に今年が当たる、由て紀念のために少年の時の鹿狩の物語をしました。」

 独歩は「元越山」に登る時にも「木立村」から浦代峠まで登ってきた。ここから道なき道を掻き分けて頂まで弟の収二と共に登って行った。途中、木樵夫に出会っている。当時は元越山への登山道などは未だ無かったのである。帰路、独歩は村娘に彼女が背負っていた籠から柿を10個貰って5個を朝飯として食した。

 これだけでも半島の「しし垣ルート」に様々な物語を紡ぐことが出来る気がする。