忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

もののけ考 Y2-11

 もののけ(物の怪)とは未だその正体が分からない段階の霊魂のことを言うらしい。昔は病気の原因はすべてもののけが原因と信じられてきたことは周知の通りである。疫病だけは神による病でこれはお祓いや禊で退散してもらった。

 人間は身体と霊魂で出来ていて死ぬと霊魂が遊離して天上(黄泉の国)に上る、その霊魂が成仏出来ない場合にもののけとなる。だから当然怨念を持っている。怨念のその対象に病が発生する訳である。それが過激であれば遂には殺されてしまう。だから仏教が到来する以前は遺体や遺骨はさして重要なものではなかった。土葬も火葬もされず放置されていた訳で高貴な人さえ墓が残っていないのが当たり前の世界だった。京都の三条河原が遺棄された死体に溢れていたのは普通の光景であったのである。山や川は誰のものでも無い無主の領域でもあったのだから。葬式仏教の煩瑣加減を思うと何だかそっちの方がすっきりしないでもない。

 さて、霊魂は鎮魂されない限りいつまでたっても成仏せずにこの世を彷徨うことになる。霊魂も大変だ。いつまでも成仏出来ずに彷徨っていたくはないであろう。だから成仏出来るように人間界にアプローチする。恨みの対象に取り付いたり時に天変地異をもたらしてその存在を分からせようとする。

 その霊魂の素性を明らかにすることが病を治癒するヒントになる。僧や陰陽師の登場である。これらが加持祈祷を行い、もののけをよりまし(霊媒)に憑依させ調伏、いわゆる屈服させて正体を白状させる。それで初めて原因が分る。調伏により霊魂を追い払い病を回復させ、原因元の霊魂に対しては供養することでその成仏を手助けするという理屈である。

 源氏物語にも有名なもののけが登場する。源氏の年上の愛人である六条御息所である。才色兼備で高貴な地位が故に可愛げなく嫉妬深く源氏に疎まれてしまった。それがもののけ(生霊、死霊)になって源氏の妻や愛人にとりつき遂には殺してしまう。実は御息所は自らが生霊になっていることにすら気付かないのである。嫉妬の強い怨念が知らず体から遊離し他人に取り付いた。本来であれば自分を疎んじて他の女とねんごろになる源氏を祟るべきところだがこの霊はそれが出来ない。悲しい性である。源氏の妻や愛人はいい迷惑である。

 

 これは紫式部による作り話であるが実世間にはこういう霊魂の祟りに関する話は実に多い。日本三大怨霊がある。菅原道真平将門崇徳天皇がそれである。確かに怨念が国家的で濃い。源氏物語もそういう時代背景を投影している。

 霊魂は時に殺人の手段としても利用される。加持祈祷とは超自然力を頼みにすることである。僧や陰陽師にその力が特に備わっている。これを利用して対象を呪い殺してもらう。呪詛、呪術の世界である。これは権力闘争の世界で大いに流行った。

 さて佐伯地方にも有名な怨霊伝承がある。佐伯氏10代当主・佐伯惟治その人である。知略武勇に優れた人であったと伝わる。豊後大神一族の本流としての矜持もなかなかのものであった。西遷御家人として鎌倉から守護として豊後入りした大友氏への対抗意識は強かったようである。時の大友家の当主義鑑(宗麟の父でこの時は16歳と未だ若年である)は臼杵長景に惟治討伐の命令を下す。惟治の勢威に嫉妬した臣下の讒訴が発端と言われるが、惟治は本当に大友氏に叛旗を翻す気であったとの見方もある。菊池義武(肥後、義鑑の弟)、星野親忠(筑後)、加え国東の雄田原氏と気脈を通じていた書面も残されているからである。

 1527年、遂に大友の軍勢2万余が惟治の栂牟礼城を攻めた。堅城である。大将の臼杵長景は中々落とせない。そこで策を弄する。惟治に対し、開城すれば謀反の意図なき旨、義鑑を説得する。その間、暫しどこかに退避しておけばよろしかろうと。惟治はこれを受け入れ栂牟礼城を去るのである(自分には謀反の意図など元々ない、義鑑の誤解である、という前提で成り立つ)。だが日向まで落ちた先で惟治は長景の意を受けた新名党に討たれてしまう(自刃)。騙し討ちである。これだけの人物である。話の流れとしてはもののけ(惟治の怨霊)の登場にならざるを得ない。惟治の自刃後、まもなく臼杵長景は転倒死、新名党一同は悉く発狂死する。また、惟治が落ち延びた途上の地にはその怨霊が現れた伝承が残る。下図は惟治の落ち延びていった経路と惟治を祀る神社の数々である。

 これほど多くの神社が人々により建立され祭られるのは余程大きな天変地異に見舞われたか、惟治がこの地方において尊崇される英傑であったか、あるいは手のつけられない暴君であったか、何らかの強烈な精神的な圧迫や脅威を感じたからに他ならない。支配地であった佐伯地方のみならず落ち延びた先の日向にも及んでいるのである。惟治という人は、人々に余程、その鎮魂を意識させる人物であったのだろう。嫡男ともどもその非業の死や英傑への思慕によるところも少なからずあったかもしれない。

 

 余談であるが惟治には負の伝承もある。魔法や呪術を操る僧・春好の重用である。彼の為に栂牟礼城の対面の山に一上寺、二上寺、三上寺を建立している。惟治もその魔術の修行にのめり込み家臣の諫言にも耳を貸さなかったとの伝承がある。この春好、その後、突然、惟治に言いがかりをつけられ殺害されている。奇しくもその没年が栂牟礼合戦の年である。惟治は春好の呪術を利用して大友氏を呪詛しようとした事実があったのではないか、これを大友側に悟らせぬ為に春好を抹殺したと推察されるのである(佐伯史談会情報による)。超自然的な力に頼るという点で少なくとも惟治の時代(16世紀初)まではもののけの世界が未だ信じられていたという事である。

 それにしてもこの地方には佐伯氏に関する文書が皆無でその支配の歴史事実が判然としない。後を継いだ毛利政権が抹殺した可能性は高い。その行為に対しては、ここは佐伯氏に是非とも祟ってもらって欲しかったものである。