忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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隠れ棲む人々 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(5)

以下、伝承と事実の欠片を拾い集めた筆者の想像である。信じるか信じないかは読者次第である。

 

 最近、同郷のA氏から故郷のある集落についての不思議な話を聞いた。郷土史に詳しい御父君からA氏が未だ若かりし頃聞いた話との事であったが、久々に背筋に電気が走った。事実か否かの証明はない。ただ、少なくとも筆者にとっては衝撃的であったのでここに引用する。

 “地勢と生活文化”で触れたように、佐伯地方、特にその山間部は人の往来を受け付け難い地勢を有する。それ故にまたこの地に逃れて来た人々の伝承も多い。A氏の父君が暮らすこの集落にはかつて“異人達の隔離施設”があった、という話である。事実であれば、戦国末、秀吉の伴天連追放令の頃から徳川幕府キリシタン禁教令当たりの頃であろう。その後、豊後崩れと呼ばれる潜伏キリシタンの捕縛の時代に入る。

 

 その前に時を更に遡る。かつて豊後に緒方惟栄(これよし)という傑物が出た。鎮西一の武門大神一族の流れを汲む緒方氏の総帥である。源平合戦の頃、平氏と源氏が奪い合うほどに武勇に優れ、平家物語源平盛衰記にも、「大蛇の末、畏ろしき者」、と謳われ頼朝も一目置いた。その傑物が、平家の残党を佐伯地方まで追い、遂に討ち果たした話が伝わっている(あくまで伝承である)。

 

 さて、筆者の故郷は古くは中野村(現佐伯市本匠)といった。豊後南部を流れる清流と蛍で名高い番匠川中流域にある。A氏の父君が住む集落もこの地にある。中野村の南に直川村(現佐伯市直川)が隣接する。ここに直見(なおみ)という地区がある。かつて平光世・光圀兄弟(実在は確認されていない)が、ほうほうのていで逃れて来た。苦労を重ねて遠路はるばる海を渡って逃れて来たのであろう、目の前の光景に嘆息した。「猶、海か(尚、まだ海なのか)。」よって、直見(猶海)の名がついた。一面、蕎麦の花で真っ白であったらしく、これを海と見紛ったという伝承である。

 

 その後、肘に矢傷を受けた兄弟は頑強な牛の背に乗り隣接する中野村の山中に分け入って行った。麓には今も肘切神社が残る。中野村の小川地区岩屋部落に出た当たりから更にその奥で、牛も険阻な山越えに遂に息絶えた。その功や見事、兄弟はその首を討ち祀った。今も人も通わぬとんでもない山中に「牛の頭大明神」と称される祠が残る。兄弟は更に山を越え中野村の西北にある旧因尾村(現佐伯市本匠)まで落ちたが、遂に惟栄の追手に討たれた。兄弟はこの地の三竈江(みかまえ)大明神社と前高大明神社に祭神として祀られている(大友興廃記、佐伯史談会)。

 因みにこの「牛の頭大明神」の祠の近くに、国木田独歩が英語教師として1年余の佐伯滞在中、2度も通ったという名勝“銚子の滝”がある。地質学では、”甌穴(おうけつ)”という極めて珍しい形状なのだそうである。

 

 その平光世・光圀兄弟が逃れて行った直見から東北の方向に一山超えると中野村の三股地区大良(だいら)集落に出る。小さな集落である。ここに住む人々の苗字はほぼ大竹である。大分県でも140名しかいない。その半分の70名が佐伯市に住み、内、30名がこの山間の大良集落にすむ。佐伯市でもここに集中して一番多く、中野村のその他の地区には全く見当たらないのである。筆者は、ここはかつて平氏の落人部落ではなかったか、と思い至った。大良は”たいら”に通じる。大竹姓はひょっとして、平氏の勢力地、安芸の大竹地方に通じはしないか。同じ地区に住む母に確認すると、そう言えば、ここだけ祀る神社が違う、とのことだった(以上、筆者私見)。

 

 後代の話になる。その旧直川村にはキリシタン墓が残っている。この直川村から大良集落を下り母の暮らす地区の前で番匠川に合流する川がある。その名を久留須川という。前述、肘切神社の近くにも久留須地区があるが、クルスと言えば十字架である。この地方にかつての隠れキリシタンの存在を暗示してはいまいか。平家の落人も隠れ棲む事の出来た地である。隠れ棲めぬはずが無い。佐伯地方には海岸地域にもキリシタンの痕跡が多く確認されている。なにしろこの地を治めた佐伯藩の藩祖毛利高政キリシタン大名であったのである。ただ、入信、棄教を繰り返したが故にイエズス会の報告には評判は芳しくない。因みに佐伯藩でも寛永11年(1634年)に隠れキリシタン11名が火刑、1名が斬首されている。

 

 やっと隔離施設の話に戻る(隔離施設というより隠棲地と言った方が相応しい気がする)。この久留須川の合流地点から番匠川を遡るとやがて右手に支流が流れ出てくる。出口の狭くなった宇津々谷である。この奥には日本で唯一の旧石器時代の人骨が発見された聖嶽洞穴がある。学会では“聖嶽人”と称す。この奥に集落が散在するが、隔離施設が置かれたと伝わるところである。何故、この地で無ければならなかったか。

 

 この谷の奥、いくつかの山を越えると臼杵市の野津地区に出る。日本最大級のキリシタン墓地が発見された、もともと豊後でもっともキリシタン信者が多かった地区である。人々が宣教師達を匿うことを考えたことは想像に難くない(当時の滞在宣教師数は把握していない)。あの山の向こうはまさに”梁山泊”である、と人々が思ったかは知らないが、辻褄は合う。また、昔より中野村の人々は指導者に、“密かに暮らせ”、と言われて生きてきたらしい(縁者の言葉が正しいとすれば)。示唆的である。

 

 A氏の父君曰く、その隔離施設のあった集落では、昔、西洋人の顔に似た人をよく見かけたという(そういう伝承があるという話だったかもしれない)。そういえば、筆者の幼馴染にこの集落出身者がいるが、思えば、鼻が高く足が長く西洋人のような奴だな、と思ったことがある。近くの集落にもジェームズディーン張りのこちらはもっと西洋人然とした先輩がいたことを思い出した。誤解無きよう言っておきたい、彼らがその末裔だと言っているのではない。

 仮にである、400年の時を超えて遺伝子は覚醒(隔世ではない)するのであろうか。

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隠れ棲む人々の里

 1614年、慶應遣欧派遣使節支倉常長随行者の一部は、ローマからの帰途、スペインのコリア・デル・リオに留まった。嫌になる程の苦難の道程を憂えたのか、帰国しても故地に希望を見出せないと考えたのか、10名弱が残った。その子孫が今もハポン姓で暮らしている。その数600名以上に達するそうである。 逆に日本にもそういう地があってもおかしくは無い。常長の随行者数以上の宣教師達が豊後に住んでいたことは事実である。

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支倉常長ローマへの道程とコリア・デル・リオ

 この時代の佐伯地方の人口密度を試算すると30人/㎢と出た。現在の米国のそれより少ない。キルギスタンラオスと同じである。山間は未だ開けていなかっただろう。同郷のS氏の独自調査によれば、400年前、佐伯氏がこの地を去った時に多くの家臣は帰農したが、この宇津々谷に入って開拓した可能性を指摘する。この谷に佐伯氏の家臣達の苗字が多く残っている事を根拠としている。宣教師達の隠棲地であったとしてもおかしくはない。

 

 蛇足になる。隠れキリシタンで有名なのは長崎地方であるが、元はといえばキリシタンといえば歴史的には豊後地方が先である。長崎は、ポルトガル商船の寄港に適した深度を確保できる地である理由で、時の領主がイエズス会に献上した寒村に歴史が始まる。にもかかわらず、キリシタンに関する観光立県として大分県長崎県に後塵を拝した。銘菓“ザビエル”が孤軍奮闘するばかりである。

 

 キリシタン遺跡や伝承の多い大分県竹田市は観光対策として、”TAKETAキリシタン謎プロジェクト”を立ち上げた。”隠れキリシタン”ではなく、”隠しキリシタン”(統治者による保護)、と銘打って差別化を図った。これはうまい。同じキリシタン伝承が残る佐伯市もこれを上回る何か策でも練っているに違いない、期待が膨らむばかりである。