忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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紀州・海人族と鯨の行跡 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(14)

 紀伊地方は豊後海部郡と同じ海人族を遠祖に持つ。かつて海部郡を置いた。この海人族は瀬戸内や阿波との関係が深い。その海部郡の南方に牟婁郡がありこの一帯を熊野地方という。無論、同じ海人族の地である。ただ、この熊野地方の目の前の海は同じ海人族が辿った豊後水道や瀬戸内海とはその様相を異にする。外洋である。時にその暴れ方は途方もない。甚大な海難事故、遭難をもたらす恐怖の海である。熊野の海人族はこれに立ち向かっていった。ここが我が海人族と決定的に相違する。

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 さて紀伊には主要な三つの宗教勢力が根を張った。西北の雑賀・根来衆、中央の高野山、南方の熊野三山である。他国の在地豪族同様に、これらはこの地の有力な支配者となった。その支配下に多くの海上勢力も覇を競った。それが交易の民となり漁撈の民となり、海賊でもある。支配者にとっては、いざという時の水軍となる。

 

 その熊野の海上勢力(海人族)の動向から豊後海部郡(海人族)のそれを大雑把に比較(推測)してみた。

 

 熊野地方は山岳が海まで迫り耕作地に乏しい。後背地が豊後海部郡以上に広大で峻険であるだけに更に厳しい条件下に置かれている。だが目の前を黒潮が流れる。回遊魚が来る。鯨が来る。海は富んでいる。海しか生きる糧が無い。だから古くより人々は黒潮に乗って南に鯨を北に鰯を追った。南朝以降のこの地の支配者(宗教勢力)はこれらの民を使って交易に乗り出し水軍を養った。海上ネットワークを構築し、鉄砲技術をいち早く取り入れ製造体制を整えた。

 

 これ等の民が主たる生きる術として選択した鯨漁は対象が巨大である上に棲み家の海も荒い。勢いこれらの民は鯨漁に際しては集団行動とその厳しい統制が不可避となる。熊野水軍が一目置かれる強力な水軍になっていったのは当然といえば当然である。

 

 この熊野水軍は、源平合戦では義経屋島、壇ノ浦まで支援し平家を滅亡させた。熊野三山で覇権を得た熊野別当湛増の働きによる。その後も南朝を支援し懐良親王の九州上陸を鹿児島まで遠征、支援する程の航海術を持つ。倭寇の構成員として朝鮮、中国沿岸も襲った。海人族が故地に仇で報いたということになる。文禄・慶長の役では雑賀衆出身の沙也加が朝鮮側に投降、鉄砲製造技術を伝授したとも伝わる。当時の日本軍の鉄砲を主体とした武力は世界最強であり、明、朝鮮はその脅威を嫌という程思い知らされた。彼らは慶長の役では弓矢を鉄砲に持ち替え日本軍に抗戦することになるが、明はやがて滅びる。熊野の威力が東アジア世界に作用したともいえる。

 

 紀伊の地勢は半島であり峻険である。外部勢力にとっては攻め難い地ということになる。国内勢力からは「紀州国一揆」、宣教師からは「大いなる悪魔の共和国、盗賊たちのなわばり」と呼ばれた。南蛮人は異教徒による宗教連合国と見做したのである。他者からはなかなかに喰えない地方なのである。戦国時代には武力と独立不羈の精神をもった強国として存在感を増した。政治への影響力を確保した。

 

 最後は秀吉に征伐され、秀吉は遂にその水軍を手中にした。部下の藤堂高虎紀伊粉河に領地を得、この水軍を指揮した。将来、我が佐伯惟定がこの人物に仕える事になるのもこの海の繋がりである。

 

 この地の人々は海人族の末裔である。移住を厭わない。土地に執着しない。 回遊する鯨や鰯を追って南に北に乗り出した。それぞれに漁法を開発し伝播させていった。海の勢力の拡大であるが、支配者の道は選ばなかったところが同じ海人族の遺伝子であろう。

 

 宗教勢力は陸の勢力である。中央から進出してきた。海人族を支配する勢力である。我が豊後海部郡の海人族と同じ運命である。海人族はそういう運命に生きて来た。陸を支配しない、陸に定住しない、自由に動き回る、何者にも支配されない、最後は陸の支配者に支配されて定住を強要されていくのである。そういう遺伝子が悲しいと言えば悲しい。既に別記事で述べた(海からの覇権)。

 

 歴史記述が可能となって、室町期以降、黒潮親潮に乗って鯨が回遊する西国沿岸に熊野の民の痕跡が現れてくる。土佐(足摺岬鯨野郷)、肥前(五島、野母、生月島)、壱岐(鯨伏郷)と鯨を追って移住した形跡がある。北には、房総まで鰯を追った。似た習俗や言葉が残る。言うまでもなく、漁と航海術に優れるということであるが、漁業で生きていけなくなった近代においては、アメリカ大陸への移民の中心地となる。海人族の究極の選択であろう。気概であろう。遂に太平洋を跨いだのである。もっとも南洋から黒潮に乗って来た人々であれば何という事はないのかもしれない。

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 その熊野の海人族が、何故か遥か昔、9世紀初め、平安時代前期に豊後海部郡の蒲江地方に唯一の痕跡を残している。この地に移住しているのである。源平合戦の遥か以前である。黒潮を乗り越えてやって来た。別記事にも記述したように(隠れ棲む人々、苗字に追う歴史)、海部郡の沿岸は敗者の落ち延びてくるには適地であり、多くの他国からの敗残者が移住してきた。だが9世紀に熊野から移住する政治的な理由は見当たらない。鯨を追ってきたに違いない。そのような古い時代から彼らは鯨を追っていたに違いない。鯨は日本列島各地で縄文時代から捕獲され食されてきた。日本列島は鯨の回遊ルートの上に浮かんでいたのである。熊野の海人族はこれとともに生き間違いなく日本の鯨文化を残した。

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 さて、豊後に留まった我が海人族にはどういう行動様式があったのだろうか。外洋には面しているが黒潮には遠い。ただ熊野に比較し浦が多く(九十九浦といわれた)、それぞれの湾が深く入り込んでいて複雑である。黒潮の分流と共にこれに乗った回遊魚が豊後水道には一定量必ず入ってくる。魚群がこの深い湾に入れば抜け出す前に一網打尽であったろう。どの湾口も海面が黒々と盛り上がり、やがて湾内に怒濤の如く鰤や鰹や鰯が先を争うように侵入してくる。新たな漁法を開発する必要もない。後背地には小さいながらも市場もある。浦の人口は少ない。食っていける。偶に鯨も入ってくるが主要な漁の対象にはならない。熊野とは数に雲泥の差がある。鯨を外洋に追う程のリスクを取る要件が揃わない。このままでいい。

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 瀬戸内海のような沿岸漁業とも違う、熊野のような外洋漁業とも違う。実にその地勢と回遊魚と定置魚との資源に恵まれた地であったのである。だが政治的に地勢上の重要な位置には無かった。熊野のように影響力の大きい宗教勢力も無く、交易の為の資本力も蓄積出来なかった。強力な水軍力を必要とする政治の胎動が及ばなかった。政治の黒潮に乗れる立場に無かったのである。そこが熊野の海人族と決定的に違う点であろう。

 

 ただ政治に疲れた人々を受け入れるに絶好の地であったことは間違いない。熊野の海人族は遠く太平洋を超えてまで移住、移民の道を選択せざるを得なかった。海が枯れたのである。我が海人族は逆に外からの移民を受け入れる文化を醸成した。これはその後に生きた。ただ、こちらも遂に海は枯れた。この地方の今に抱える課題である。

 

 海人族はまたぞろ昔日の如く漂流を始めるべきなのであろうか。

 

 

<参考>

 因みに鯨の生息数と栄養価についてみてみる。生息数は十分で栄養価は他の食肉に比較し随分と高い。筆者も幼少期には鯨肉を食したおかげで今日の健康体を得た。

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 鯨を食することで海洋の生態系のバランスが改善するそうである。仮に鯨の4%を食した場合、鯨の捕食している魚類の漁獲量が増大するとの試算結果もある。だから一定数の鯨を食することは漁業にもメリットがあるという訳である。

 わが海人族は漂流しなくてもいいかもしれないのである。

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                        (以上)