忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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島津、豊後蹂躙図とリーダーシップ 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(18)

 これほどまでに自国を他国に蹂躙された例を知らない。1586年の島津氏による豊後進攻である。

 下図は島津の豊後進攻直前の豊後領国内の攻城戦に向けた主要な武将の配置図である。島津のその支配勢力地からの膨大な調達兵力(約40,000人)に比較し、大友には既に籠城戦以外の選択肢は残されていなかったと言わざるを得ない。野外決戦をやれるほどの兵力の結集も出来ず、仮にあったとしても大軍を指揮出来る武将も不足していたということである。それぞれの居城も精々500~1,000人程度の寡兵である。大友宗麟臼杵・丹生城にも2,000人しか結集出来ていない。よって宗麟はなり振り構わず秀吉に支援を求めたのである。だが、その選択の意味は歴史的に意外と大きいように思うのだがどうだろう(外部勢力への臣従と九州への呼び込みの視点)。

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 かつて九州6カ国(豊前、豊後、筑前筑後肥前、肥後)の守護として九州一を誇った大友王国は1578年の日向高城(耳川戦)での島津への惨敗を契機に家臣団の結束も緩み、かつての支配地における在地領主の離反も相次ぎ、宗麟を継いだ義統には既にこれを統御する力は無く、事実上、領国は僅か豊後一国を残すのみとなっていた。今や秀吉が大友支援の為に先陣として送り込んだ武将達(讃岐:仙石久秀/十河在保、土佐:長宗我部元親・信親)にその行方を任せるのみである。お互いかつては四国での宿敵同士でもある。こちらも幸先はあまりよくなさそうである。その実働戦力は6,000人。案の定、戸次川の戦いで島津に一敗地にまみれた。

 

 一方、残り3か国(薩摩、大隅、日向)の守護・島津氏はこの時期に非常にいいタイミングでかつてない英邁で力量のある指導者を得た。島津四兄弟である(義久、義弘、歳久、家久)。当主・義久の指揮下、その九州統一戦の意欲は高く、この間、かつての三国鼎立の他方、竜造寺の肥前、大友の筑前筑後、肥後をことごとく手中に収めた。筑前だけが大友の立花宗茂が奪回、堅守している状況にあった。島津は秀吉が九州に乗り込む前に九州を完全に制覇し島津王国を確立することに注力した。明確な目的意思があった。よって秀吉の大友、島津への1585年の停戦命令、1586年の国分案を無視してまで豊後進攻を開始したのである。当主・義久は秀吉を見下していた。その器量が宗麟や義統とは違うのである。それは家臣にも伝播する。その強い意志と島津の強兵に豊後は蹂躙されることになる。

 島津勢による豊後各地の数十にのぼる攻城戦の状況を蹂躙図として整理した。その進路と蹂躙の行跡が下図である。詳細図はデータを参考するにとどめ簡略図にて概観したい。なんと義弘軍には直入郡玖珠郡を、家久軍には大野郡、大分郡を、完膚無きまでに叩かれ蹂躙されことごとく各城が陥落した。海部郡の佐伯地方と国東郡を残し豊後全域がやられ放題である。

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なんといっても阿蘇口からの島津義弘の進攻、日向口からの島津家久の進攻、その侵入口を守る豊後勢に内通者が出た。豊後の情勢がことごとく漏れる。かつ手引きをする。拠点を守る豊後勢の戦意が挙がろうはずがない。大友の豊後の実情が分ろうというものである。

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 結果、戸次川の戦いに敗れた義統は豊前まで退避、長宗我部は四国に撤退してしまった。これで事実上、豊後は陥落、島津の勢力地になったようなものである。豊前を残してはいたものの島津としては概ね九州統一といってよいであろう。ただ、この豊前には秀吉の先遣隊として毛利勢が秀吉本隊の上陸に向けて掃討戦を展開中にあった。その秀吉本隊の兵力、20万から30万。これが迫っている。流石に島津としてはこのままでは厳しい。豊後からの撤退を決断する。本領の防衛戦に戦略を転換するのである。

 

 さて、強いリーダーシップと明確な目的意思は、勝敗如何にかかわらず戦後処理においても相手側に影響を与え得るのである(結局、秀吉に降伏した島津は本領を安堵される、秀吉への脅威の創造の結果である)。問うべきは、お家の存亡に際してのリーダーの明確な意思の有無である。未来図である。耳川戦後において大友にも未だ立て直す猶予期間は十分に残されていたはずである。強靭なリーダーシップと目的意思、この時期における島津と大友の決定的な相違である。

 その差は図らずも島津の豊後蹂躙という災厄を豊後の民衆にもたらした。治政者に対する以上の辛酸を豊後の民衆は吞まされたのである。田畑は人馬に踏み荒らされ、食料は略奪され、籠城からあぶれた民衆は戦果として島津兵の略奪物(乱取り)となり、豊穣の地は長い間、何物も生み出すことが出来なくなってしまったのである。治政者への同情の余地は一切不要である。合戦は己の職業であり結果がすべてである。

 

 もっとも島津の兵にも同情を禁じ得ない面もある。肥後、肥前筑後筑前と合戦の止む時が無い。連戦に次ぐ連戦なのである。その士気が潰える事はなかったのであろうか。戦闘意欲を如何に維持出来たのであろうか。これを鼓舞し維持し死地に立ち向かわせる動機はなんであったのだろうか。そう思う事が再々である。一般的には食事を保証されるだけなのである。日当など無い。これに見合う恩賞は何か。将は恩賞地で頑張れる。下っ端の兵は多くが百姓である。非正規労働者のようなものである。命に見合うものとは何なのか。もっとも薩摩の人口当たりの兵員比率は1/3と他国に比較して突出して高かったと言われる。超軍事国家ではあった。

 だから兵には在らん限りの略奪が許された。これがその日当のようなものである。人間は名誉だけで戦えるほど人倫の出来はよくない。豊後侵攻時には薩摩兵のその欲求は頂点に達していた筈である。兵による蹂躙が苛烈を極めた事は想像に難くない。豊後の民はことごとく乱取り(誘拐)されていった。買われたのではない。略奪されたのである。一般的に合戦時には民衆は城に逃げ込んだ。あるいは山中に隠れた。その為の非常食を山中に隠し持った。最後は槍や刀を持って自から戦った。合戦におけるそういう慣習の故である。

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 民衆も兵同様に戦乱が長引けば生きる意欲を削がれる。厭世的になるのは止むを得ない。神仏にすがる。将さえも合戦に際しては神仏に祈り加護を求めた。仏門に入り名号を名乗った。都合のいい魂の救済措置である。禅宗がこれに合致した。今でも豊後には禅宗が多い。如何にこの地の在地領主達が多くの合戦に連れ出されたか、如何に大友の合戦が相次いだかの証明でもある。

 

 さて佐伯地方である。守るに懸崖の地としての有利は確かにあったであろう。

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 にせよ、弱冠、18歳、当主・佐伯惟定は島津家久に正面から向き合った。野外合戦に臨み豊後では唯一、島津勢を破った。家久の撤退においてもこれを追撃し泡を吹かせた。佐伯地方の民衆は蹂躙されることはなかったのである。ただ島津への寝返りや降伏を考える家臣もあった。そういう方策にて領地と民を守る選択とてあっていいのである。彼我の実力を知れば、大友にも戦わず島津に降伏する選択とてあったのである。捲土重来という言葉もある。

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 直入郡の堅城・岡城は流石の島津義弘も落とせなかった。こちらも若干、18歳の志賀親次がよく守った。義弘の進攻の大いなる妨げになったことは間違いない。ただ孤塁を守ったが領地と民衆は守れなかった。

 国東半島の付け根にある木付城の木付鑑直も僅か200名の手勢で島津2,500名を防戦した。このことで国東地方は島津に蹂躙されずに済んだ。ただ、その後、木付一族には中々に悲しい運命が待っているのである。大友に臣従するが故の悲運が待っているのである。

 豊後の若き勇将、佐伯惟定も志賀親次もやがて父祖の地を離れることになる。治政者の宿命とはいえ、その生き様には忸怩たる思いを禁じ得ない。

 

 如何なるリーダーを頂くかは、現在に至るまで、民衆にとっての不変の最大のリスクなのである。