忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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豊後佐伯氏・三兄弟それぞれの道 Y3-6

 豊後佐伯氏は主家・大友氏の改易に伴い故地・佐伯での事実上四百年の幕を閉じた(1593年)。最後の当主「佐伯惟定」は佐伯を離れ浪々の身となる。随身を除けば家臣もそれぞれ自ら生きる道を探さざるを得ない。多くは帰農した。武家の宿命とはいえその落魄を想像するに胸が痛む。祖父「佐伯惟教」、父「佐伯惟真」の悲運を背負った遺児・三兄弟(惟照、惟定、惟寛)のその後を追った。

三兄弟の故地、居城・栂牟礼城址遠望(佐伯城址より)

 

 三兄弟の試練は祖父・惟教が主家・大友義鎮(宗麟)に反目し伊予・西園寺氏を頼り十有余年を伊予に雌伏したことに始まる(1556~1569年)。雌伏先の西予の情勢も北の河野氏、南の一条氏に挟まれて不穏で安定しない。西園寺氏の家臣・宇都宮氏も分裂した状況にある。惟教父子は西園寺派の宇都宮房綱(萩森城主)、乗綱(白木城主)兄弟に豊後帰参まで仕える。元々佐伯氏は西予とは縁が深い。この時点で惟教の妹は房綱に嫁いでいる。やがて惟真の娘も房綱の一族に嫁ぐ。

 

 

 長男・惟照は伊予で成長して乗綱に代わり白木城主を務める。惟照の悲哀は惟教父子が豊後帰参時、西園寺氏の人質(惟教の主家・大友氏は西園寺氏の敵方)として留め置かれたことであろう。加え、祖父・惟教は帰参後、大友氏の大将として今度は恩義のある西園寺氏を攻めてくる。惟照の辛苦は想像に難くない。本来、惟定(二男)に代わる豊後佐伯氏の当主だったかもしれないのだ。事実上伊予に捨てられ、周囲の不信を一身に負いながらも自力で生き抜いた生涯は称賛されていい。

 その後、「小早川隆景」が伊予を平定、豊臣秀吉家臣の「戸田勝隆」が後を受けて「板島丸串城(宇和島城)」に入封するに及び宇都宮氏の主家・西園寺氏は滅亡する。惟照は新たな主家・戸田勝隆には仕官せず帰農し佐伯姓から緒方姓(豊後大神氏の源流、緒方荘に由来)に変えて代官、庄屋として地元の有力者として今に続く。子孫は1753年に「緒方酒造」を創業した。

 ここに感動的な話がある。緒方酒造は先祖を同じにする「緒方洪庵」の生誕180年を記念して大吟醸緒方洪庵」を創醸(1991年)するも2018年の西日本豪雨肱川氾濫)で廃業する。地元出身の大阪大学関係者が復興ボランティアに参加、偶然、この酒造会社に出会う。大阪大学緒方洪庵の繋がりは深い(緒方洪庵の息子による大阪医学校は大阪大学医学部の前身、人間科学科に適塾記念センターも設置されている)。大阪大学はこの地の災害復興の一環として大吟醸緒方洪庵」を復活するプロジェクトを始めた。大学ゆかりの酵母「きょうかい6号」を使用し兵庫県の酒造会社に委託、「新生・緒方洪庵」を誕生させたのである。大阪大学公式グッズ 日本酒緒方洪庵 (osaka-u.ac.jp)

 因みに児島惟謙(大審院長として「大津事件」を裁定、「護憲の神様」と呼ばれる)はその野村・緒方一族で同家でも働いた(宇和島藩士・金子惟彬の二男、惟彬は豊後佐伯氏の末裔とある)。

 皮肉な運命もある。戸田勝隆の後を受けて「藤堂高虎」が入封する(1595年)が二男・惟定が重臣として同道してくるのである。故地の佐伯で惟定が改易された時には惟照は既に帰農している。今更、藤堂家に仕官する気もなかったろうが惟定と再会したかどうかは伝わっていない。因縁の地で劇的な再会があって欲しかったような気もする。ただ、萩森・西園寺一族に嫁いだ佐伯惟真の娘の子・重綱は藤堂家に200石で取り立てられている。惟定の取り成しがあったものと推測される(佐伯朗氏の考察)。

 

 豊後佐伯氏は代々武勇に優れる家であるが惟定もそうであった。祖父惟教、父惟真は九州の関ケ原、大友・島津の耳川戦(高城)で”無念の討死”をするが、その島津の豊後侵攻時には惟定はこれを見事に撃退する。多くの大友氏の家臣が主家を見限り島津氏に寝返る中、岡城主・志賀親次(19歳)と栂牟礼城主・佐伯惟定(18歳)のみが島津氏を撃退、豊臣秀吉が感状を与えるほどの働きを示した。その後、親次の妹が惟定の妻になっている。運命の不思議を思わざるを得ない。

 さてその惟定も兄・惟照同様に改易後の運命を自ら切り開いていく。秀長の養嗣子・「秀保」を頼る。何故、秀保か。伏線はある。秀吉の九州征伐(島津討伐)の時に秀長が高虎を引き連れて惟定の居城・栂牟礼城下に一泊する。惟定は一行を先導し島津討伐に参戦(1587年)、向かうは祖父、父が討ち死にした「高城」である。島津氏はこの地の「根城坂合戦」に敗れたことを契機として秀吉に全面降伏する。これが惟定の秀長、高虎との唯一の接点である。高虎はその後、秀長の死に伴い養嗣子・秀保の後見役となる。ここから高虎と惟定の本当の歴史が始まる。

高城より根白坂を望む(現・木城町

 

 高虎は一兵卒から大大名まで上り詰めた。とんとん拍子で禄高を増やした為に組織も急拡大していく。問題は子飼いの家臣がいない。よって有能な者であれば積極的に高禄でヘッドハンティングしていく。惟定がまずお目に適った。その武功は申し分ない。二千石を与える。ただ、栂牟礼城下での秀長、高虎の一泊という縁も大きかったのではないか。惟定は高虎の重臣として高虎を支え、また、大神佐伯氏の末裔としても家中に一目を置かれつつ、知行4,500石で伊勢津藩に生涯を閉じる。

 

 惟定に佐伯から随身した家臣も同様である。それぞれに惟定とともに運命を切り開き津藩で足跡を残すが多くは絶家となった。惟定の子孫も直系は二代で途絶えたものの、その功績に報いる形で養嗣子により家を再興され今日まで家名を繋いでいる。

 

 最後に三男・惟寛である。幼い惟寛は母親とともに「毛利輝元」を頼るが最終的には「備中・足守藩」に仕官が叶う。惟寛の動静は知る由もないが、その子孫に蘭学医・「緒方洪庵」が出た(佐伯惟因の二男、洪庵の時に佐伯姓から緒方姓に変える)。足守藩は秀吉の妻、ねねの兄・「木下家定」が藩祖である。惟定同様に豊臣家との縁つながりを思う。足守藩の最後の藩主の弟の二男は歌人・木下利玄である(養嗣子として本家を継ぐ)。

 その洪庵と利玄は豊後佐伯とも少なからず縁がある。佐伯出身の洪庵の弟子が佐伯で初めて種痘を行う。その最初の被験者が「矢野龍渓(「経国美談」の作者)」である。その龍渓が「徳富蘇峰」に「国木田独歩」を推薦、独歩が佐伯に赴任してくる。一方、利玄は白樺派の作家・「武者小路実篤」による「新しき村」建設の為に佐伯を訪れる。実篤、利玄は「新しき村」として日向の地を選択する。佐伯出身の歌人・「加藤勘助」に負うところが大きい。偶然にもその地が佐伯氏因縁の「高城」と同じ地(現・木城町)なのである。不思議を思わざるを得ない。

 下図は三兄弟が自ら切り開いた足跡である。

 最期に惟定を初代とする伊勢津藩の「権之助家」の家譜をまとめると下表の通りとなる。

  

 二年前の同じ頃に「暑い夏、熱い夏」を書いた。(https://bungologist.hatenablog.com/entry/2021/07/24/085238

望郷の念が昂じた為である。果たして、佐伯三兄弟、特に惟定に故地・佐伯への望郷の念はあったのだろうか。あったに違いないと信じたいのである。

豊後佐伯と伊予を隔てる豊後水道