日本政府(明治政府)が法律上正式にキリスト教の活動を認めたのは1899年である(神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定)。
日本に初めてキリスト教がもたらされたのは、1549年のザビエルの鹿児島上陸からである。江戸幕府の1614年の禁教令までが最初の日本のキリスト教布教期間とすれば、僅か65年間である。秀吉の1587年のバテレン追放令で区切ると40年にも満たない。
同じ外来宗教である仏教の538年に伝来して以降、現在まで1400年の布教期間に比べれば一瞬の出来事と言っていいかもしれない。
それでも家康の禁教令が出された1614年でのイエズス会による統計では日本にいた聖職者は150名、信徒数は65万人に達していた。話半分としても30万人はいたことになる。当時の日本の人口を12百万人とすると3-5%に達する。日本のキリシタン大名は全国で55家に達したとも報告されているが、そのキリシタン大名が多くいた九州地方ではその比率は更に高かったはずである。
仏教のように国が率先して広めたのでもなく、何もメディアのない時代、言葉も通じない宣教師が歩き回って布教活動しての結果である。当時は現代の方言が各地での共通語であったはずで、その習得も困難を極めたと推察する。イエズス会では宣教師の不足やその日本語能力が布教上の障害になったとしているが遂に解消される事はなかった。
如何にキリスト教が支持されたかと言う証左でもあろう。既存宗教への失望感が深まっていた社会背景(戦乱、天候不順による飢饉頻発、仏門の腐敗)も影響したことは間違いない。
ザビエル曰く、日本は稀に見る品質の良い(受容能力の高い)宣教地であった。一方、結果的には世界でも最大規模の殉教国にもなった。ザビエルが創立者であり総長のロヨラに宣教師の日本派遣要請した時に条件をつけている。学識が高いことと若くて布教経験のあることを特に要求している。日本の知識水準の高さと厳しい生活環境に対応出来る心身ともに強靭である必要性を見抜いていたのである。日本では当初は大内氏の山口が布教拠点となったがその滅亡に伴い、大友宗麟の府内が活動拠点になっていく。
豊後では、当初は下層階級で貧しい者が信者になるばかりで中々信者は増勢には転じなかったが、1575年、宗麟の次男親家の受洗を契機に家臣及びその領民に一気に広まっていった。最大時には信者3万人がいたと言われている。
現在、日本の旧教系信者数は45万人、新教を含む全体では95万人である。それでも1%に満たない。しかもキリスト教が解禁された1899年以降の130年間の布教活動の結果である。この差に当時のイエズス会宣教師の死さえ恐れぬ神への強い信心と布教の使命感と熱意を窺うことが出来る。またそれが殉教の素地にもなったということでもあろう。
イエズス会は、日本の布教管区を、都(権威の中心、多くの学識層)、豊後(大友氏の強力な保護)、下(長崎、上長滞在地、寄港地)に分けた。その豊後では、当初、改宗者が多かった高田(大分)、野津(臼杵)、朽網(直入郡)、が主要な拠点になった。特に野津は臼杵領内にあり大友氏と関係が深い。菩羅山到明寺(野津院寺小路村にあった)は宗麟の父義鑑が1545年に建立しその墓地にした。ただ宗麟は1578年の自らの受洗後はここを修練所に変えた。因みに島津氏に日向を追われた伊東氏は大友宗麟を頼ったが、この寺に仮寓したらしい。その家臣小田匡徳は佐伯氏を頼り若き佐伯惟定の軍師として島津軍を敗走させた。後に天正遣欧使節の一員となる一族の伊東マンショも共にここ野津にいた。
野津には最盛期3千人のキリシタンがいたと言われる。それだけに家康による禁教令後は新たに入封した稲葉氏の臼杵藩による弾圧が激しくならざるを得ない。世に豊後崩れと呼ばれる。この地の多くのキリシタンは棄教するか潜伏するしかなかった。
直入郡の朽網には更に多く6,500人がいたと言われ豊後でも最大のキリシタン居住地になった。一方、島津侵攻に対する抗戦で勇名を馳せた同じ地方の竹田の岡城主・志賀親次は1584年に受洗している。1587年の秀吉のバテレン追放令に伴い棄教した大友吉統の圧力にも屈しなかった。この地を去るまで最後まで最大の保護者になった。
宗麟の後、家督を継いだ嫡男吉統は1587年以降、キリシタン弾圧を強め豊後で多くの殉教者を出すことになる。にも関わらず、その後、再度、入信している。島津侵攻時の逃避行動や文禄の役での退却行動で遂に改易されるに至るが、豊後はそういう資質の最後の棟梁を頂いた。
最近、その親次のかつての領地であった竹田市では、この地を”隠しキリシタン”の地として売り出し中である。親次の後に入封した中川氏は、潜伏キリシタンの存在を黙認した形跡がある。敢えて弾圧しない。そういう触れ難い土壌になっていたからなのか、為政者の深謀遠慮であったのかもしれない。その意味では”隠しキリシタン”との呼称も満更嘘ではない。遺跡も多い。
さて、島津侵攻を跳ね除けた一方の雄である栂牟礼城主佐伯惟定の周りにはキリシタンに関する情報が伝わっていない。ただ、惟定が佐伯を去った後、1601年に入封した佐伯藩祖毛利高政はキリシタン大名であった。上述の岡藩とは逆の関係である。1584年頃、高政は秀吉に改易されても棄教しなかった高山右近の勧めで入信したがどこまでの信心であったかは不明である。ただ面白いことに1593年、最初に入封した日田、玖珠地方にかつての領地竹田を退去した志賀親次が2千石を得て住まいしていた。高政は親次と交流し信仰心を深めていくのである。1604年にはアウグスチノ会のサン・ヨゼフが臼杵から佐伯に布教に来ている。修道院も建立した。高政も1606年に佐伯に教会を立てたがいずれも今はその痕跡も残っていない。佐伯地方にも信者はいたのである。
禁教令後には佐伯藩でもキリシタン根絶政策が実行されている。1634年には現在の佐伯鶴城高校グランド脇に当たる馬場の松(当時は六本松河原)で11名が火刑、1名が鳩首されている。日野浦(鶴見有明浦)の清太夫一族他3名である。清太夫は元々大友氏に仕えていた浪人で藩祖高政とも懇意にしていたと言われる。高政は晩年までキリシタンを保護したと推察される。
佐伯藩は1817年に長崎奉行宛に藩主名でキリシタン子孫根絶の報告をしているが、この時、同じ日野浦の庄助が転ぶ、と報告している。要するに佐伯にも隠れキリシタンはいたのである。
臼杵藩のキリシタン調査(1617-1711)によると類族存命者14,865名中、佐伯には182名、キリシタン存命者388名中、佐伯に1名とある。
キリシタン弾圧が強化されキリシタンが潜伏するようになるのは1637年の島原の乱による。これを契機に江戸幕府は宗門改制度と類族改制度の実施を全藩に周知徹底させる。類族改制度とは棄教者の子孫を監視する制度である(7世までが対象とされた)。上記の通り、臼杵藩には未だ15千人ほど監視対象者がいたということである。
佐伯地方にもキリシタンが暮らした痕跡は多い。鶴見丹賀浦の寺屋敷(教会跡との見方もあるが墓跡がある)、島原の乱の残党が住んだと言われている。直川地区の下直見や弥生地区の堤内、鶴岡地区の古市にはキリシタン墓や伏墓が残る。栂牟礼城址からはマリア観音が発掘されている。以前、”隠れ棲む人々”でも書いたように、直川地区から本匠地区に久留須川が流れている。隣の野津にはクルスバという地名がいくつか残る。”クルスの場所”という意味である。ここも”クルスの川”と言えないこともない。
野津は佐伯と境界を接している。ここには日本最大規模のキリシタン墓地が発見されている。ここから一山越えれば佐伯の本匠地区に至る。本匠地区は当時は未だ開発も進んでいない。もっとも日本全国どこもそうであった。ここはあの佐伯惟定の家臣が帰農地として入植した地でもある。佐伯氏を祀る遺跡も残っている。野津から逃れて来たキリシタンが棲みつく地としても適地である。その可能性は高い。
ところで当時は交易を目的に府内や臼杵に多くのポルトガル船が来訪した(ただ、1560年が最後らしい)。当然、異国人も居住したであろうし日本人現地妻がいたかもしれない。”蝶々夫人”達である。古来、寄港地にはそういうことが起きる。宣教師以外にも多くの外国人(商人)が暮らしていたのではないか。これらの子孫もまたキリシタンとして隠れ棲んだ可能性がある。混血であれば目立ち過ぎる。だからこの本匠地区に”異国人の隔離場所”の伝承が残るのも頷けるのである。そもそも懸崖の地である。野津から山を越えて来れば、まずは一安心である。
さて、“しかとキリシタン”である。これは筆者の造語である。如何に禁教とはいえキリシタンを徹底的に探し出し、あるいは密告させ、定期的に踏み絵を行わせ、毎年宗門改を行い、見つかれば罰する(死罪は免れない)、といったことを本気でやり続けたのであろうか、という疑問がある。支配者も被支配者も面倒この上ない。
大橋幸泰氏の論文から面白い見方を得ることが出来た。日本人は古来、複数の宗教に属しても平気であった。神仏を同時に信仰出来る人々でもある。宗教は一年を通じた村落共同体の行事と切り離せない、節目でその生活習慣に深く関わってきた。共同体の安定的な運営は何より重要である。支配者側にしてもそうである。運命共同体を破壊するデメリットをいずれも理解していた。見て見ぬ振り、事勿れ主義は、日本社会の特徴であり知恵でもある。邪魔にならぬなら、知らない事、見ない事にすればいい。”隠れキリシタン”であれ”隠しキリシタン”であれ共同体の運営には欠かせないのである。キリシタンだからといって日常生活で問題になる事はない。キリシタンにとっても信仰が生活の全てでは無い。共同体の一員としての役割の方が大きかった筈である。目立ちさえしなければ、支配者も共同体の仲間も黙認する事のメリットの方が大きかった筈である。
筆者はこれらを”しかとキリシタン”と仮称してみた。一般的に幕府側治政者も出来ればキリシタンと認定する事を回避したい風を見せている。異宗、怪しき法として目を瞑りたいのである。大橋幸泰氏が浦上崩れを例に下表に考察しておられる。
長くなったが、最後に大友宗麟の本当の墓の所在についてである。墓は確かに津久見市にある。だが大友氏の改易後、その墓の破壊を危惧した家臣が密かに遺骨を持ち出し佐伯に移したとの伝承がある。その場所が堅田地区の天徳寺である。近くにはかつての佐伯氏の菩提寺である龍護寺がある(これは関係がない)。
この寺の本堂の横の薬師堂の裏に歴代和尚の墓があってそこに宗麟の墓がある。宗麟は生前も天徳と変名を使った事があるから真実性がある。宗麟の家来が密かに守っていたが、毛利高政の時代に退去させられ蒲江に移って、以後、この寺の檀家になったらしい。更に不思議な事に天徳寺の開山章庵が宗麟と同じ年に死亡している。宗麟は休庵とも名乗ったらしいから何となく符合しないでもない。
津久見市には申し訳ないが、これは佐伯市の観光資源にならぬか。あのウィリアム・アダムスのリーフデ号の漂着も本当は佐伯湾であった事が証明されているにも関わらず、未だ臼杵湾に漂着したと説明される。郷土の歴史的遺産にはこだわるべきである。
こちらは佐伯市が、”しかと”されているのである。
資料参照:佐伯史談会他、各種論文に準拠
了