忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

番匠川 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(33)

 全国の一級水系(幹線流路)は109水系ある。一級河川数となると支川を含む為14千近い。例えば淀川は全国最大の965支川(河川)を持つ。それぞれの名前の由来も様々である。ただ職業名を幹線流路の名称にしているのは、唯一、全国でこの番匠川だけである。“番匠”とは今でいう大工の意味であるが、大工の呼称の方が番匠より古い。何故、”大工川”と名付けなかったのだろうか。

f:id:Bungologist:20210924114508p:plain

f:id:Bungologist:20210924114538p:plain 

 大工とは、元々は律令時代、国家(宮廷)の建築、土木、修理を所管する宮内省木工寮(もくりょう)の中の職掌(階級)の一つであった(下図参照)。この時代には、宮殿、貴族邸宅、寺社と国家による建築需要に対応する為に国営職工集団を保有する事は自然の成り立ちである。

f:id:Bungologist:20210924114624p:plain

 この木工寮の下に多くの職工(木工、土工、檜皮工、瓦工、等)が置かれ、”大工(おおたくみ)”はこれらの職工を統括指導するChief Engineer(技師長)であった。今でいう大工は当時の”木工(こたくみ)”に該当する。

f:id:Bungologist:20210924120928p:plain

f:id:Bungologist:20210924121031p:plain

 上記の建築需要に応える為、この木工だけは大変忙しく交代勤務を必要とした。毎日出勤する事を長上、交代出勤する事を番上、その職掌を長上工、番上工と称し、この”番上工”が番匠の由来である。よって番匠=木工と同義語となった。一方、大工についても主要な職工である”木工の統括指導者”を指すようになっていった。下図はその作業状況を示している。

f:id:Bungologist:20210924125255p:plain


これを詳しく分解してみてみると下図のようになる。

f:id:Bungologist:20210924125343p:plain

f:id:Bungologist:20210924125420p:plain

f:id:Bungologist:20210924125453p:plain


 やがて木工寮が廃止され国家による建築職工集団が無くなると番匠(木工)やその技術は寺社や民間が継承していく。最大勢力は官寺であった奈良興福寺東大寺で、その造寺造塔、修理にと番匠は不可欠の職工であった(寺社自体も職工を保有・育成)。番匠も”座”を作りこれら寺社の建築需要を独占的に請け負うようになっていく。これを統括指導する大工も”世襲化”、建築技術もその一族・血縁が相伝するようになり、奈良、京都を中心とした大寺社の建築需要を通じて高度な建築技術を身につけていく。

f:id:Bungologist:20210924130242p:plain


 一方、鎌倉、室町期になると地方における寺社建築需要が奈良、京都を遥かに凌ぐ成長局面に入る(京都・奈良の神社建築は室町になって鎌倉の2.8倍、地方では4.9倍となった)。これに伴い多くの大工や番匠が中央から地方に下向(地方進出)していく。高い技術を必要とする番匠は地方には育っておらず、まさに引く手数多だった訳である。今も各地に国宝級、重文級の見事な寺社が残っているのはこの為でもある。番匠は刀匠と同じような特殊な職業と位置付けられ、社会でも高く評価されるようになっていくのである。

 さて、豊後佐伯地方に奈良や京都のような、この大工の統率下、一大建築職工集団が必要な程の造寺造塔の大需要がある筈もなく、よって名付けるとしても”大工川”にはなり得なかった訳である。精々、”番匠川”レベルに留まらざるを得なかった。

 やがて16世紀末頃になって大工を”棟梁”と呼称するようになる。これに符号するように”番匠が大工”と呼ばれるようになる。この段階であれば大工川と名付けても不思議ではない。換言すれば、この川を番匠川(=番上工川/木工川)と名付けた時期は、少なくとも大工が未だ多くの職工を統括する意味に使われていた鎌倉室町期以前まで遡る事が可能という事である。

f:id:Bungologist:20210924130431p:plain


 ただ、それでも何故番匠川である必要があったのか、他にいくらでも名付けようがあったであろう。この地の人々が建築に関わる何か特別な思いを共有していたとしか思えない。歴史的背景がある事は間違いない。この地では今でも職業として大工の地位が高い。何か伝承は残っていないだろうか。一つ見つける事が出来た。

 曰く、「朝廷から番匠大工ますえもんにこの地の川に架橋の命令が下り(年貢米の官倉がありその運送にこの川が障害となっていたことが背景)、指導者であることを示す番匠鉦が下賜された。ますえもんは大勢の大工(木工であろうが)を連れて奈良の都から佐伯にやってきたが、何しろ川の水嵩は高く淵になっており架橋工事は難航、ある日、大事な番匠鉦を淵に落とし見失ってしまった。朝廷に対して責任がある、正直に報告すると仕事ぶりとその態度をよしとし二本目の番匠鉦が届けられた。何年もかけて難工事が終了したものの無理がたたり、ますえもんは奈良に帰ることも出来ずこの地で亡くなった。その功績をたたえてこの川を番匠川と名付けた。」、という伝承である。

 だが、この程度のことであれば各地にもありそうな話である。今ひとつ説得力に欠ける。もう一つ見つけた。この川の河口に長砠(ながはえ:運送問屋があった、廻船問屋か)、大船繋(おおふながかり:まさに帆船の寄港地である)、三九郎谷(かつて東九州一の造船所があった)、東風隠(こちがくれ:帆船の風よけの退避地であろう)という地名がある(あった)。山林資源には恵まれた地である。造船材料は豊富にある。中世にこの地の豪族佐伯氏は水軍を営み豊後水道を席巻した。蛇足ながらこの地は”海人族の地”なのである。中世、この地名のあった河口に大造船業や流通拠点(佐伯地方の山林資源や海産物の交易拠点)が営まれていたのではないだろうか。

 上述の下向してきた奈良の番匠大工が地元に建築技術をもたらしたとする。建築分野のみならず人々はこの造船に技術を転用した可能性がないだろうか。当時、番匠は木材切り出しや建築材への加工も守備範囲であった。一連の技術を保有していたのである。この川は造船材料を山から運び下ろす水運を提供し、人々は河口に造船業を起こす手段(技術)を手に入れ、地元産物の交易を起こすに至ったという見方が可能となる。番匠大工の下向は農業生産性に乏しいこの地に一大造船・流通業を起こすきっかけとなったと言えなくもないのである。だとすれば、このことが川の名を付けるにおいて他の地域と大きく相違すると言えるであろう。

 番匠川以外に名付けようがないではないか。

 

  (参考資料) 番匠(大河直躬法政大学出版局

 

了