忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

“豊後のロレンス”のブログを訪問頂きありがとうございます。 望郷の念止み難く、豊後及び佐伯地方の郷土史研究と銘打って日々の想いを綴っております。たまには別館ブログ(リンク先)でcoffee breakしてみて下さい。読者になって頂ければ励みになります。

豊後と禅宗五山十刹 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(38)

 禅宗、特に臨済宗においては五山十刹の制がある。権力者による禅宗寺院の寺格である。室町幕府南宋の制度を導入し特に関係の深い寺院を選んで支援、保護した。天下五山、京都五山鎌倉五山がある。十刹となると雨後の竹の子の如くである。日本では時代によって対象寺院も順位も変化してきたが、元はインドの五精舎、十塔所を元とする。

f:id:Bungologist:20211111111044p:plain

f:id:Bungologist:20211111111110p:plain


 寺院(宗教)保護は鎮護国家が目的であるが、一方、寺院は当時の最高学府であり先進文化発信基地であり僧侶は行政官や政治顧問になりえた。これらの寺院には、当然、優秀、有能な僧侶が集まる。ただ、先進の教学、芸術文化は中国にある。遣唐使以来、国家や寺社は挙って優秀な僧侶を留学僧として中国に送りこむ。僧侶もまたそれが目的で寺格の高い寺院を利用するようになる。五山が大きな役割を担った。

 9世紀に遣唐使は廃止されたが、それ以降もこれを遥かに上回る僧侶が東シナ海を渡っていく。航海術の発達で東シナ海の直接ルートが開かれたことに加え、日中間に貿易の為の海商が現れ始めたことが大きい。数十年に一回の渡海機会であった遣唐使船に比べ海商の船を利用すればいつでも渡航することが可能になった(入元僧は約4人/年、南宋時は1人/年、と渡航ラッシュである)。その後、宋は貿易港として市舶司を明州(寧波)、泉州、福州におく。明州が日中貿易の中心になってく。また13世紀、金の台頭でそれまでの仏教の聖地であった五台山は江南に移った南宋杭州が帝都)と離れてしまい、仏教の中心も杭州、明州に移っていく。明州の天台山がこれに取って代わる。僧侶もまた北方から南方の明州、杭州を目指すようになる。

 下図は東シナ海における渡航目的と渡航・交易ルートの変遷である。とにかく多くの知識人が命を賭しても中国に行きたかった。

f:id:Bungologist:20211111111159p:plain


 さて鎌倉政権は貴族仏教に対抗すべく武士仏教として禅宗を積極的に導入する。時の権力者、北条時頼時宗らが宋から多くの高僧を招く。時頼は建長寺を建立し蘭渓道隆(開山)を、時宗は無学祖元(円覚寺開山)を招く。飛鳥奈良時代は寺院は官寺であったが、平安鎌倉時代からは私寺・菩提所に代わっていく。北条氏は禅宗を菩提所と定め多くの高僧を南宋、元から招き禅宗を優遇していく。鎌倉の寺院では中国語が飛び交い鎌倉五山(但し鎌倉時代にはそういう呼称は未だ無い)は学問の中心となっていく。やがて室町時代になると足利氏の京都が禅宗の中心になっていく。この時代になると中国僧の薫陶を受けた日本僧が五山の主体となっていく。

 多くの日本僧が学び多くの高僧を日本にもたらした南宋、元時代の中国の五山十刹は下図の通りである。

f:id:Bungologist:20211111111315p:plain

f:id:Bungologist:20211111111348p:plain

f:id:Bungologist:20211111111413p:plain

 

 一方、東シナ海は学問・文化の輸入の海から交易の海へと変容していくが、明が成立すると海禁政策の下、東シナ海倭寇や密貿易船が行き交う危険な海に変貌していく。この時代になってやっと豊後大友氏が勘合貿易の担い手として、また倭寇対策の日本側の主体者としてこの海に登場してくる。

 

 宗教界の動向ついてまとめておく。古来の仏教は現世利益の宗教であったが所詮理想論で実現できない。むしろ、来世にこそ幸福があると説いたのがこれから派生してくる念仏の浄土宗であるが、これは中々に厄介な宗教でもあった。親鸞はこれを広め日蓮はこれを否定した。この頃、南宋禅宗五家七宗が興る。南北朝時代に北方では念仏宗門に理論・哲学が発達する一方で、南方では実際面が発達、哲学や教義不要という方向に向かう。漢民族が政治的に南方に追い詰められることによりこれまでの仏教も実際面を重視するようになった結果である。これが禅宗になる。禅は仏教が中国に伝わった時に既に含まれていたが、本来、仏教の(精神)修行法である。禅は南宋の政治に合致した。禅による内的研究である。それが禅宗として興隆し南宋に五山十刹の制度を産む。

 鎌倉武士の多くも元々は浄土教を信仰したがこの禅宗の精神(修養)が武家精神に合致した。以後、武家政権はこれを積極的に取り入れていく。南宋から多くの高僧を呼び寄せる。日本僧もかつて北方の五台山を目指したように、杭州、明州の五山十刹を目指すようになる。日宋、日元間の知的交流は深まったが明時代にその終焉を迎える。智慧の海から収奪の海への変貌である。僧の渡航は途絶え日本では独自の宋風文化が育っていく。

f:id:Bungologist:20211111111450p:plain


 さて豊後大友氏である。大友氏はもともと鎌倉武士(御家人)である。それが頼朝の九州唯一の御分国(直轄知行地)である豊後の守護として移住してきた。当然、鎌倉風、禅宗文化を持ち込んでくる。室町時代には豊後万寿寺は天下十刹の一つになった。第五代・大友貞親は中国(元)より直翁智侃を開山として招く。直翁はその後京都に出て京都五山の一つ東福寺住持に上り詰める。その影響で九州、豊後一円に禅宗が広まることになる訳である。以前、”宗教勢力と世俗化と文化と”で書いたように豊後は他地域に比べ禅宗比率が高い。納得がいく。ただ豊後佐伯地方が39%と豊後でも圧倒的な禅宗地域であったことをみたが、その理由が未だ杳として分からない。外来人・大友氏と現地人・大神佐伯氏の400年の拮抗、軋轢の影響であろうか、と推測した段階で思考が止まったままである。

 下図は豊後と禅宗(僧)の状況である。大友氏は、元、明時代を通じて高僧の直接的な招請行動を起こしている(直翁智侃、宗峰妙超、復初本札~実現せず)。一方、その後の明においては倭寇の被害が頭痛の種である。九州6か国の守護であった大友氏に使者を派遣しその抑止を要請してくる。鄭舜功であり将州である。悪名高い倭寇の棟梁・王直も同道する(因みに王直は種子島への鉄砲伝来船を操船していた男でもある)。この時、佐伯氏の菩提寺であった龍護寺住持・清授が正使として鄭舜功に随行する。残念ながら清授は捕縛され帰国することはなかった。多くの禅僧は行政官、外交官でもあった(この時代既に中国から輸入すべきめぼしい教学も無くなっている)。この時に佐伯地方の禅宗(僧)が唯一歴史の水面上に顔を出す。

f:id:Bungologist:20211111111532p:plain


 大友宗麟禅宗を信仰し京都大徳寺に瑞峰院を建立、菩提寺とした。にもかかわらずキリシタンとして受洗する。その歴史を思えば禅宗からキリスト教へと宗麟の精神の変化も分からぬでもない。その最大の対抗者として存続した大神佐伯氏は最後まで禅の精神を貫くことで生き抜いた。佐伯地方の禅宗比率の高さはやはりその影響もあったと今は考えておくこととしたい。

f:id:Bungologist:20211111111603p:plain

参考資料:鎌倉武士と禅(鷲尾順敬、日本学術普及会)

     僧侶と海商たちの東シナ海(榎本渉、講談社学術文庫

了