忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

地方の精神と国のかたち、都市は地方の接ぎ木である。

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苗字に追う歴史 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(4)

 我が佐伯地方にかかわる苗字について調べたことがある。

 

 竹馬の友に「お前の苗字の由来を知っているか。少なくとも今の内に役所から戸籍の履歴をすべて貰っておいた方がいい。その内、過去のものは抹消される。家譜を辿れなくなるぞ。」と脅されたからである。もっとも彼のように”己の苗字の源流を辿りたい”、という真っ当な発想からではない。

 

 単に、そもそも我が郷土”佐伯”の謂われは何によるものか、かつて佐伯氏が支配したこの地に佐伯姓が少ないのは何故か、単純な疑問による。この分野には佐伯史談会に顕学がおられ既に考察済みでもある点を念押ししておきたい。以下の諸データは“苗字由来net”に依る。

 

 大分県(2021/3:人口約110万人)で上位の苗字をみると、佐藤、後藤、河野、の順となる。”佐伯姓"に至っては374位、550人しかいない。肝心の佐伯市にはほとんどおらず”壊滅的”である。ただ、隣の豊後大野市に多いのが不思議である。因みに佐伯藩の殿様であった毛利氏(中国の毛利とは系列は違うが、藩祖の高政が毛利輝元に気に入られて森から毛利へ変更した事実はある)はというと、こちらも佐伯市には"毛利姓"は殆どいない。ただ、毛利氏の佐伯藩への転封前の知行地日田市には多い。

 大分県の苗字では”河野姓”に留意しておきたい<図1>。

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<図1> 大分県の苗字ランキング

 その前に、佐伯地方の履歴(文献登場年)を少々。海部郡(日本書紀:4世紀末)→海部郡佐伯院(本朝世紀:941)→海部郡佐伯荘(豊後国図田帳:1285)→佐伯氏(源平盛衰記:13世紀中頃)→毛利氏(1601襲封)→佐伯市明治元年:1868)の経緯となる。余談だが、大分県には由布院安心院の歴史的な地名が今も残るが、佐伯が佐伯院の地名で残っていたらまんざら悪くはないな、と思ったりもする。差別化である。 

 この地が歴史上は”海部”に発することは間違いない。”海人族”が定住したことに始まるのである。

 

  それでは佐伯の謂われはそもそも何か。これも顕学が既に侃々諤々の議論を行っている。二説あったが、今では律令体制下、伊予の佐伯部(警護を専らとする)のこの地への移住(強制移住との説もあるが)に始まったことは確実のようである。何故か。九州に依然、勢力を張っていた隼人対策(征伐)である。我が地の人々にとって隼人は敵対する勢力ではない、むしろ同族に近い。いい迷惑である。以来、佐伯の地名が定着した。因みに愛媛県では西条市に佐伯姓が最も多い。市町村レベルでも全国一である。

 

 佐伯は佐伯部(古代集団・品部のひとつ)に由来する。物語は東国の蝦夷に始まる。手に負えぬ凶暴な人々であったようで、捕虜としてもとても畿内には置けない、よって西国に移住させ警護役として使役した。佐伯の謂われも、サエギ(塞ぎ)の任、サエギる者、防御する意味による。さて、その派遣先が、播磨、安芸、讃岐、阿波、伊予等、である。何もこれらの地が同様に蛮地であったということではない(東国は蛮地であったと言っているようなものであるが、これも時の権力からみた場合ということである)。むしろ最も皇化されていた地であったよしである。伊予は我が海部郡(佐伯地方)の対岸にある。伊予の佐伯部から隼人対策の前線基地として、対岸の海部郡にこの佐伯部を分駐せしめた。そういうことである。

 

 そこで全国の佐伯姓のランキングをみてみると、現在でも当時の派遣国であった各県に概ね合致するのである。当然といえば当然であろうか<図2>。

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<図2> 佐伯姓全国ランキング


 さて現在の佐伯市に戻る。ここに住む人々の苗字別の人口構成はどうなっているか。佐伯市では小野姓が一番多い<図3>。ただ、川野表記を含むと実質的に河野姓が一番となる。河野も川野も対岸の伊予河野氏の流れである。一族の内紛や毛利氏の侵攻による避難民である。本家河野氏はその後滅びた。それにしても移住者の名が一番上に来るのが面白い。大分県全体でも河野姓は3位、河野姓の多さでは全国でも東京に次ぎ大分県は2位である。本家本元の愛媛県は全国17位と少ない。かつて豊後で勢威を振るった大神姓緒方氏(佐伯氏源流)は今は隣の福岡県や熊本県に最も多く、大分県には少ない。敗者は滅亡か逃亡の道しかないということを苗字の数で知るのである。

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<図3> 佐伯市の苗字ランキング

 佐伯地方には海を渡って逃れて来た一族が多い。河野氏同様に、伊予三島水軍の流れを汲む御手洗氏も、かつて安芸の小早川氏の侵入を契機に故地を後にしこの地に定住先を求めた。伊予水軍の法華津氏も長宗我部氏の侵攻により伊予宇和郡法華浦から逃れて来た。その後、成松氏を名乗る。陸路ではあるが、肥後の菊池氏も逃れて来た形跡がある。本家は肥後で滅びた。遠い昔には、源義経重臣も頼朝に追われ住み着いた。平家の落武者は、言わんをや、であろう<図4>。

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<図4> 佐伯地方と海の因縁

 一体全体、何という土地柄かと唖然としてしまうが、九十九浦と呼ばれるようにこの地は実に入江が多い。海に生きる人々が逃げ込むには都合がいい。先住の人々が寛容であったのか、多くの未開地が残っていたからなのか、あるいは防御に堅い地であった為か、ここは顕学に教えを乞うしか無い。

 御手洗氏は、その後、佐伯氏の水軍の主力となった。御手洗姓は全国で大分県が1位、市町村ベースでは佐伯市が全国1位となる。キヤノンの創業者はこの一族の末裔である。成松姓も大分県熊本県に次いで多いが、同様に佐伯市が全国1位である。この地で漁業で財を成したと聞く。

 これら移住者達が現在に至るまで連綿として共に佐伯地方を支えてきた事は間違いない。ここに現在の日本国の移民、難民政策に関する良き先例がある。それが本稿の結論である。

 

 さて、視点を変える。

 

 肝心の支配者であった我が佐伯氏はどこに行ったであろう。四百年を豊後守護大友氏と距離を置いてきたが、文禄の役での大友氏の不首尾により、その改易に連座しこの地の支配を終えた。最後の当主若き惟定はこの地を離れざるを得なかった。その惟定の実力は秀吉も認め申し分ない。伊予の藤堂高虎が召し抱えた。その後、佐伯氏は津藩藤堂家の重臣として明治まで存続した。高虎は、紀伊(豊臣秀保家臣時代)、伊予(秀吉の大名取り立て時代)の水軍を指揮し文禄慶長の役を戦ったが、水軍の流れを汲む佐伯氏の経験は活かされたはずである(佐伯氏は文禄の役では大友氏に従い、文禄の役では藤堂氏の下で海戦に臨んだ)。

 

 佐伯氏の後に入封した毛利氏にも海にまつわる話がある。藩祖の毛利高政はかつて太閤秀吉の近習であった。明石郡に三千石の禄を得た。明石は瀬戸内水軍の東の根拠地である。秀吉の九州征伐や文禄慶長の役では船目付や船奉行を勤めた。海に活躍の場を得た事で、その後、豊後日田に2万石の知行地を得た。因みに彼はキリシタン大名である。高山右近に感化された。若い頃には秀吉の水攻めで名高い備中高松攻めで人質となった。高政の潔さに毛利輝元が惚れた。この時、森姓を捨て毛利姓を得た。中国大返しで秀吉は天王山に光秀を討った。

 

 大友氏改易後、秀吉の側近の多くが豊後に知行地を得た。高政もその一人で日田を得たが、関ケ原戦で豊臣側についた。輝元への忠義からである。結果、日田から佐伯に転封となったが改易は免れた。毛利氏は、後に豊後森藩より二代に渡り養嗣子を迎える。森藩の祖は来島水軍の流れを汲む来島康親である。能島、因島村上は落魄したが、来島は陸に上がって後に久留島と名を変え生きながらえた。康親の父、来島通総慶長の役で高政とともに朝鮮水軍と戦い戦死した。高政も負傷落水したが高虎の兵がこれを救出した。佐伯氏最後の棟梁惟定もこの海戦に高虎の下で参加した。惟定も高政も佐伯地方で繋がることになろうとは、この時、夢にも思わなかっただろう。

 佐伯氏も毛利氏も久留島氏も海の因縁が深い。

 

 豊後水道のやや東寄りに日振島がある。かつての海賊の頭目藤原純友の根拠地である。オランダ船リーフデ号は豊後臼杵黒島に漂着した(乗船していたヤン・ヨーステン、ウィリアム・アダムズは家康に仕えた)。故郷の先達が実証を行い、史実の訂正を求めた。伝承や地名を含めリーフデ号は佐伯湾大入島に漂着した事実が証明された。この地には海にまつわる話が尽きない。

 

 その佐伯も毛利も最早この地の苗字に名を連ねることはない。名も無き海人族の末裔達が粛々と今も日々を生きる。

 苗字は支配者の歴史を雄弁に語るのみである。  

                                           了